アジアは怪奇映画作成大国である。東アジアの日本と韓国を中心に製作されたホラー映画は、もともとその土壌のある東南アジア、とくにインドネシアとタイでは、従来から中心的存在であった怪奇映画にも大きく影響し、アジアをしてハリウッドに対抗可能な一大怪奇映画世界としているのである。
「なぜ幽霊は女性であり、弱者であり、犠牲者なのか」という問いが本書を一貫している。これは、ハリウッドの怪奇映画と対比したときに明確になる、アジア怪奇映画のきわだった特徴である。「他者」とは何か、他者はつねに外部から侵入してくる存在であるのが米国であるのに対し、アジア世界では他者は内側に存在する。この意味において、米国とアジアは根本的に異なる世界なのだ。
また、中国という共産主義社会、インドネシアとマレーシアを除いたイスラーム世界では怪奇映画は製作されない、という指摘も重要だ。一元的な世界秩序に支配される世界では、怪異現象は秩序転覆的な存在となるから断固排除されなければならないからだ。
こう捉えることにより、インドネシアやマレーシアといった、イスラーム世界でありながら多神教的なバックグラウンドをもつ世界の意味も浮き彫りになる。
本書は、きわめてすぐれた「東南アジア文化論」になっている。 個別には、インドネシア現代文化論であり、タイ現代文化論である。とりわけタイにかんしては、怪奇映画を切り口にしたタイ現代社会論として、きわめて秀逸なものであるといってよい。
なぜなら、映画とは大衆の無意識の欲望を、商業ベースにおいて映像化したものだからだ。映画は社会の変化を写す鏡になっている。
タイは、「気候は思いきり暑く、料理は思いきり辛く」、ここまでは常識だ。「そして映画は思いきり怖く」(p.81)と続くと、読者のタイ理解にあらたな地平が開かれるのを覚えるはずだ。
私も タイの怪奇映画 『ナンナーク』 はDVDで見たが、著者の分析は大いに目を開かされた。1997年の「アジア金融危機」以後の政治経済社会状況の変化とパラレルに、タイでは映画界のニューウェイブが登場したという指摘には、大いに納得させられた。
怪奇映画をつうじて、タイ文化そのもの、タイ人の心性、タイ人の思考パターンを知ることができるだけでなく、1997年以降の社会の変化についても、文化の側面から跡づけることができるからだ。 すでに中進国となったタイは、すでにノスタルジーが映画にも現れているという。タイ社会は文化的には、すでにポストモダン状況にあるわけだ。
何よりも本書は、日本では紹介されたことのないようなローカルな怪奇映画の要約が大半を占めるので、たんねんに読むとかなり骨が折れる。あくまでも個々の映画作品の内容を踏まえた上での論考を目指したものだからだ。もちろん、興味深い映画の要約を読むと、何とか入手して見てみたい、という欲望もかき立てられる。
しかし、よくもまあ、ここまで東南アジアの怪奇映画を収集し、実際に見て、内容まで突っ込んで論じているものだと感心する次第である。
東南アジアのホラー映画ガイドとしても、映画史のエリア・スタディとしても、東南アジア大衆社会論としても、いろんな読み方の可能な、内容充実した一冊になっている。
索引も、映画タイトルを原語つきで完備されているので、レファレンスとして一冊もっていてもいいかもしれない。