興味深く拝読させていただきました。
中でも興味を惹かれたのは表紙にも大きく記載されている津田氏の「ソーシャルメディアは東北を再生可能か」
と言う寄稿文であり、石巻市をはじめとした被災各地における現状と被災者へのインタビューをもとにした
実地の状態とマスメディアのフィルタに依らない実態、そこに過去から受け継がれてきた「講」の存在が
東北の復興を地域住民の結束と言う形で強力に進めようとしている現地の努力を認識できたことは収穫でした。
ソーシャルメディア賛美を前提として書かれている感が多少見受けられ、ややマスメディアや行政に対して
否定が先走っていると言う印象を受ける文章という感想は浮かばざるを得ないところですが
(「不特定多数に対する最大公約数的なサービスの提供」がマスメディアの命題であり平等かつ公平なサービスの提供は
個別性を犠牲にせねばならない、とマスメディアの報道をいったん擁護しておきながら、同じ「最大公約数的サービス提供者」
である国家行政のそうした活動を批難するのはややダブルスタンダードな印象を受けました)
それを置いてもこうした形で「地域の現状とこれから」を忌憚なく発信することは様々な意味で喜ばしい事であると思います。
しかし、この思想地図β vol.2全体を俯瞰して眺めた時に私にはどうしても違和感があります。
それは編集長である東浩紀氏ご自身の前文にもっとも顕著であり、ここで生まれた違和感は終始付きまとい続けました。
その違和感の正体はおそらく「安全神話」がかつて存在しており、3月11日に崩壊したのだ、と言う東氏の前提にあります。
確かに東北の大震災は我々の前に大きな不安と傷を残しました。それは原発であり、地震であり、津波であり、
それら全てをひっくるめた「将来への不安」「次の瞬間への不安」です。
東氏は「我々は安全であった(と思い込んでいた)が、実は安全でないことに気づいてしまった」と述べており、
そこから「安全でない我々の間には格差が存在する」と語りました。それはすなわち金銭であり、社会的地位であり、保険です。
安全でない状態となった時にそれらを持つ者と持たない者の間には決定的な差異があり、それに気付いてしまった3月11日以降は
我々はそれを意識せずにはおれない、それを意識する限り我々は「ばらばら」である、と。
果たしてそうでしょうか。
格差が無い、と言うわけではありません。それは歴然として存在しました……3月11日よりももっと前から。
我々は格差の中にいました。危険の中にいました。逃れ得ぬ不安の中で生きていました。
人は転べば死にます。風邪をひけば死にます。ベッドから落ちれば死にます。
少なくとも、私はそうした人々と関わり、そうした人々のお世話をさせていただきながら生きていました。
……人と言うものがそれくらい危い、決して「安全」なんかではない存在であると認識して生きていたのは、
恐らく私だけではないはずです。
東氏はそうではなかったのでしょうか。
ソーシャルメディアが我々を一つにした(と言う幻想を抱かせた)と東氏は言いますが、少なくとも私はそうではない。
全ての人間が一行のIDに変換され、表向き優劣を持たない1ユーザーとして扱われるソーシャルメディアの中にあってさえ、
私はは不特定多数の一部に埋没した「ひとつになった何か」ではなく、別個の自我としてモニタの前に座っていました。
私はもともと「ひとつ」になんてなってはいなかった。そうした幻想はあったかもしれませんが、その幻想は
「我々はひとつではない」と言う前提をクッションとして挟んだうえで存在する幻想であり、それを忘れた行動ではありません。
みんな「個」です。ソーシャルメディアの中でも、我々は歴然として「個」でした。「ひとつのなにか」ではない。
誰もが「私はあなたとは違う」と言う感覚を胸に抱きながら、それを認識したうえで「ひとつになっているような気持ち」
を楽しんでいたに過ぎない。それは当然の前提であり、その場で確認する事ではないから口にしていないだけです。
ですが東氏はそうではなかったようです。
ソーシャルメディアの中にいる不特定多数の個人を顔の見えない「集団」であると確信していたのか、それは解りません。
ですが東氏の前文はそうした前提に立って語られているように思えましたし、それに対しては私は「違うのではないか」
と言う感想を抱かざるを得ません。私も末端ながらソーシャルメディアの一部としてネットを遊泳する身であり、これは実感です。
この東氏の前文に代表される「元はひとつだった」「今は違う」と言う誤解(私にはそう思える)が思想地図β vol.2を貫いており、
横たわる誤解の川が私とこの書籍を断絶しているように感じられました。どこか距離のある文章である、と。
私の個人的感想としては低評価を付けざるを得ません。
しかし津田氏が被災地に置いて「講」と言う「ひとつになった」地域共同体の精力的な活動を教えてくださったことは有意義でしたし、
書籍そのものが内包する情報の価値は人によっては有意義であるかも知れません。そもそもこの違和感は私個人の感想なので。
その上で、私は東氏の前文には「そうではない」と言いたい。
3月11日まで誰もが安全を信じ、安全を謳歌する巨大で正体不明なナニカの一部に埋没していたという事は、それはきっと無いと思うのです。