本書は有名な工学研究者である著者が、今から半世紀以上前に著したエッセイをまとめたものである。本文は全部で18話に分かれていて、何れも身近な話題を観察・モデル化した上で「最適解」に近いものはどれか?、データをどう読み解くか?を考察するという話になっている。道具として用いているのは初等的な数学が多いので、一部を除いて一般の方でも困難なく読み進むことが可能だろう。中でも、第5話「秘書の選び方」と第8話「ミカンの音楽と作曲」が評者には面白かった。
という具合に本書のページを楽しくめくっていたのだが、最後に驚きが待ち受けていた。最終第18話「妙な算術」は次の文章で始まる。「1960年の9月5日から9日まで、南仏マルセイユの近くのエクス・アン・プロバンスで第2回国際オペレーションズ・リサーチ学会が開かれた。」「私の聞いた講演の中で奇妙に印象に残ったものが一つある。それは・・・」と言う書き出しで、以下のような代数系の話が述べられている。実数の2元a,bに次のように演算+、×を入れる、
a+b=max(a,b)、
a×b=a+b(右辺は通常の加法)、
この演算の入った実数の上で線型代数を実行し、最短経路問題や数理計画法に応用するというのがこの節の話題なのだが、この定義を見て「あれ?どこかで見たことがある」という思いが頭を過った。雑誌をひっくり返して探してみると、Anatol N. Kirllov・前野俊昭「素晴らしきアメーバたち」数学、第58巻2号2006(Journal@rchiveから誰でも無償で閲覧できます)という論説が見つかり、その中にトロピカル半体という名で上の代数系そのものが扱われていた。半世紀前に工学者が考案した代数系が現代数学の中で蘇っていたのである(工学の世界では、max-plus代数の名で連綿と研究されている)。因みに、上記の論説ではトロピカル半体の起源を通説である1978年のI.Simonの論文としているが、本節を読むと、その起源は少なくとも18年遡らなくてはならないようだ(帰納関数論で有名なS.C.Kleeneが1956年に提唱しているという話もある。もしかするとvon Neumann辺りに行き着いてしまうのかも…)。この話題を「奇妙に印象に残った」と記して、著述に残した著者の数理的直観はまことに鋭いものがあると思う。もっとも、著者はそのすぐ後に、「単に、妙だったから」と仰ってはいるが・・・。
まあ、こんな小賢しいことを知らなくても、本書はとても楽しく読める。そして、まえがきにある「学校で教わる数学になじみにくかった人たちも、「現象」を見る「数理」の目、特に「統計」の目は、ぜひとも養っていただきたい」という著者の願いは、現在の我々にこそ切実に響く願いであると思う。多くの方々に一読をお勧めしたい。