先日「
46年目の光―視力を取り戻した男の奇跡の人生」を読みました。そこで「モノを見るという行為の多くの部分は予備知識と予想を土台にしている」という記述に出会いました。つまり予備知識と予想がないと、目に見えても把握できないのだそうです。目が見える人にとっては何とも不思議な話ですが、本書を読み通すとナルホドと納得しました。
レビュータイトルに記したように「(知覚する世界)=f(現実)」という写像関係があるそうです。脳が知っていること(現実)を《私》はどこまで知っているのかというと、実は殆どの情報は意識に上ることなくて、無意識のうちに加工・処理されたモノを《私》が知覚しているだけだそうです。だから目に入ってくる全情報(現実)を"脳"は知っていたとしても、加工・処理がうまく働かないと"モノ・コト"として知覚できないわけですね。
この"関数f"を有する脳は、著者によれば"ベイジアン脳"とも呼べるモノなんだそうです。つまり物事の理解とは、世界についての局所的モデルを「予測⇔予測エラーの修正」という再帰的操作を通じて 整合的に/self-consistentに 作り上げていくことに他ならないのです。(そのためにも 予備知識と予想を通じて 半ば試行錯誤的に"学習"しないといけない。外国語の"体得"過程と通じる処がありますね。予備知識と予測がなければリスニング出来ません) 言い換えれば、脳は 現実認識における「解釈学的循環」(※)の問題をベイズ統計的に解決していることになる訳です。この見方はかなり普遍性がありそうで、面白く思いました。
(※)全体の理解は部分の理解に依存し、部分の理解は全体の理解に依存する、つまり 全体や部分の解釈が循環に陥ること。
「
単純な脳、複雑な『私』」と内容的に重複している箇所がありますので、併読すると理解が深まることでしょう。またオリバー・サックスの著作(「
妻を帽子とまちがえた男 」「
火星の人類学者」)で出てくる患者たちのことも本書の視点で眺め直すと面白いでしょう。