谷川は大山永世名人を継ぐ大棋士である。それまでの常識を覆し、終盤の早い段階から最終手までを読み切るその戦法は画期的なもので、"光速の寄せ"として他棋士に恐れられた。それが、羽生を中心とするチャイルド・ブランド達に押されるようになった。そして、羽生が七冠を達成する際、最後の王将戦で七冠目を献上するという屈辱を味わう事になった。本作はその敗戦から、臥薪嘗胆の末、十七世名人を掴むまでを描いたもの。
本書で語られるエピソードの中では次の二つが印象に残った。一つ目は、上記の王将戦の際、谷川(神戸在住)は阪神大震災を経験するのだが、その時自身の無力を悟り、改めて自分にできる事は将棋しかないと心に刻むシーン。二つ目は、ある小学校を訪ねた際に色紙を頼まれ、「無冠の私のサインでいいんですか ?」と尋ねると、「無冠という谷間にいる時だからこそ価値があるんです」と逆に励まされるシーン。共に技術面ではなく、精神的なものだが、一流棋士だからこそ、こうした精神面が勝敗の機微を分けると素人考えながら想像される。
本書は一流棋士の失意と復活を描いて興味深いが、読んだ時、イヤな感じがしたものだ。出版社の意向もあろうが、「私はこうして「復活」したぞ」という、本人は意識せずとも驕りを感じさせる内容の本を書く事によって、再度谷間に落ちる危険性を感じたのだ。そして、その予感は当たってしまう。人間万事塞翁が馬。勝負事は分からないものである。