表題作『御開帳綺譚』は、謎と共に始まり、物語の展開と同時に、真相が明らかになっていくものの、根本においては「愛」の物語。愛は自己中心的で、奪い取るもの、という側面は確かに存在する。しかし本作は、そうした部分を持ちながらも、その底において、ひたすらに相手のことを思い、ひたすら自分を捨てて寄り添う愛の姿を浮かび上がらせてくる。
一途に相手を恋い焦がれ、愛し抜くとき、いつしかその愛の中から「自分」が抜け落ち、ひたすら相手のことだけになってしまう。これはある種の昇華であり、無償の愛、真実の愛の一つの姿であろう。クライマックスの「御開帳」の時、その愛の昇華が完結し、美しくも見事な和解が生起する。その姿は、主人公が目撃する、御開帳での仏像の輝き(変容)という出来事に象徴されているように、その瞬間、見える者には、つまり、そうした愛を感じて理解することができる者には一瞬の燦めきとして見えるのであるが、それでもその煌めきはひそやかで、どこか儚げである。
禅門では、「本尊」とは目に見える仏像などではなく、めいめいの本当の心、本来の自分のことだと教える。本作の御開帳の本尊も、その歴史的ないわれを辿っていくと、歴史的な出来事の変転の中で、仏像としてのその素性はいつしか分からなくなってしまうのである。しかしながら、そのような「歴史的−実証的」な意味での問題とは次元の異なるところで、心を動かし、魂を揺さぶるような出来事が生じるのである。
併録されている『ピュア・スキャット』も、同じである。「社会的」あるいは「常識的」な意味では理解できない関係性の中に、真の愛の姿が浮かび上がってくる。「奉仕」とまで言われるほど尽くす夫と、悪態をつき、わがままを募らせ、なかなか「素直になれない」妻。しかし、ここには不思議と自己愛のどろどろした重苦しさがない。これもまた、昇華された愛の形。『御開帳綺譚』の愛とは正反対のように見えて、実は合わせ鏡のような相似形にある愛の姿である。だからこそ、「あたしたちって、ピュア、だよね」という妻の言葉が、心にしみるのである。
古風な愛と、現代的な愛。二編の素晴らしい「愛」の「綺譚」、お薦めです!