これは個人的な事情に促された「徒然草」の読み方です。その事情は冒頭に簡潔な形でほのめかされるだけです。しかしこの作品の読者は、どれほどのすさまじい対話が著者と作品の間で繰り返されたかを痛烈に知ることができます。そしてたどり着いた結論の清明さとそこにたどり着くまでのプロセスの見事なまでの整理は、このすさまじさを一瞬忘れさせてしまうほどです。
まず「方丈記」の著者の鴨長明と「徒然草」の比較が最初に提示されます。ここではこれまで見たこのないほど悲しいまでの姿の長明が描かれます。そして、第三章の「兼好と時間」こそが、著者がたどり着いた「徒然草」のエッセンスです。ここまで血肉と化して読み込まれた徒然草がもたらしたものは、もはや徒然草論の域を超えています。それは著者がとたどり着いた「哲学」なのです。その哲学の説明は、通常の徒然草論で使われる使い古された言葉を超越して行われます。医者である著者の思考を反映してでしょうか、論理は精緻で抽象的でかつ一般的です。でもそれが表現される文章は、美しい名文であり、使われる用語は目新しいものが多いのですが、見事なまでに「的確」であり、華麗なまでに精巧で丁寧なものです。補遺で描かれる、倒錯のニヒリズム、現世厭離の不生命思想の部分も一読に値します。どうしてこれまでこの著者を知らなかったのだろうか。