人間社会は常に腐敗との闘争を強いられる。人権だと叫んだところでそれは空虚なものでしかない。それを実現してくれるものは何もないからだ。
何時何処で社会的地位が確立されたのかは分からない。一度つくられた格差は修正されることなく続き、弱者を永遠に苦しめる。
そんな体制を打破する一つの手法として、宗教が登場するわけである。俗と変わらない政治的な既存宗教とは異なるものだ。いずれは政治的・営利的なものにより腐敗する運命にあるのだが。
どこかで聞いたらことがあるような話、要は教祖が自らが神である所以を語るものとして語るものが、小角の話と似ているのだ。俗世界に失望し、真実を求めて山に入り修行する。神憑りや憑依体験をする。
ただし、小角のような教祖は、一代目でその神通力を失いかねない。
洗脳やマインドコントロールは、全て教祖のために教祖の視点で、教祖が潤うために、決まりきった答えを自発的に導くための手段なのである。
本来であればこのような読み方をすべきではなく、前鬼や後鬼の活躍に心踊らせるべきなのだろうが、私はそれだけでは読めなかった。
小角すら全知全能の万能ではないことを認めている。にもかかわらず責めたり、叱責したり、それ以外は認めない体質は如何なものだろうか?
万人には万人の生き方がある。それを尊重せずして本当の幸せがあるのだろうか?