「実存は本質に先立つ」とサルトルは言った。これを「『である』に先立って『がある』が在る」と言い換えることもできるだろう。しかし廣松はこの実存主義的命題を否定する。『である』と『がある』は同時的であり、むしろ関係の第一次性を強調するなら『である』は『がある』に先行する。「夫」と「妻」は「夫婦」という関係があって初めて項として成立する。「男性」と「女性」も「男女」という関係があって初めて成立する。「人間」もまた他の動物との関係を俟ってはじめて人間たりうる。「私」もまた他者との関係がなければ成立できない。かくして項としての物自体は関係から独立しては存在しえない――。
廣松渉が1994年に亡くなっている以上、2009年に発行された本書は新作ではありえない。内容は『世界の共同主観的存在構造』をメインとした過去の論文の抜粋である。編者の熊野純彦は「廣松哲学への入門書となることをも企図している」と解説で書いているが、廣松初心者に本書を最後まで読んでもらえるかどうか不安である。特に(他のレビュアーも指摘しているが)『世界の共同主観的存在構造』の第一部第二章「言語的世界の事象的存立構造」が「言葉の意味と認識の問題」(『もの・こと・ことば』の「意味の存立と認識成態」)に差し替えられているのには違和感を覚える。『世界の共同主観的存在構造』をそのまま再録しては芸がないということで苦渋の決断だったと思われるが、ここで挫折する初心者は少なくないのではなかろうか。本書はむしろ廣松哲学になじみのある読者が復習を兼ねて楽しむ参考書であろう。
そんな廣松ファンにとって最大の特典は熊野純彦による解説ではないだろうか。特に廣松の卒業論文『認識論的主観に関する一論攷』(岩波書店『廣島渉著作集』第十五巻収録)に関する記述は興味深い。「ψは偽であると主張することは「ψは偽である」は真であると主張することに外ならないと云われる。真理は存在せずと主張することは、「真理は存在せず」という真理の存在を主張することに外ならないと云われる」「此れに従えば、一切の主張は結局の処、ψは偽であるとの主張に帰着する。然して人は是に拠って絶対的懐疑論、絶対的な相対主義は不可能であると云う。(……)是にして当を得ているならば爰から一体何が帰結するかを考覈しよう」廣松自身が『世界の共同主観的存在構造』を「卒論のリライト」と称しているとおり、この時点で廣松哲学はすでに完成の域に達していたことがうかがえ、今さらながら早世が惜しまれる。『存在と意味』を完成してほしかった。