サドの『美徳の不幸』を思い出してしまう。自分の好きな作家のことしか頭にない主人公の貫多や、つつましい秋恵にすべておごらせて平気な久美子など、図々しい人間が幅をきかせている。貫多の女である誠実で献身的な秋恵が不幸になる。これは世の中の縮図である。まともな読者なら秋恵に同情するだろう(貫多から青タンを顔に吐きかけられた秋恵に同情しない者がいるだろうか)。作者は秋恵に対する悪行をすべて書き、自分を醜く描くことによって、最も献身的だったひとりの女性に贖罪を求めているようにも見える。内容は女性に対するサディズムだが、これが虚構ではなく、自己のすべてをさらけだした私小説であるところがマゾヒズム的である。世の中の作家の多くは、異性にもてようとして、良い人だと思われようとして書いている。島田雅彦などは村上龍との対談で「もてない作家は駄目だ」とまで言い切っていた。そのジンクスを打ち破り、男の誰もが持っている「もてたい」という気持ちを捨てて、あえてその逆を突っ走った方法、すべてを暴露し自己評価を傷つける潔い犠牲的精神、そのマゾヒズムが、読者の心をとらえるのだ。