本書は本居宣長と平田篤胤を比較検討することで両者の学問の違いを際立たせている。篤胤にとってはかなり酷な筆誅だが。というのも、宣長は国学の最後の巨人(the last emperor)だったので。両者の学問の質に関しては、宣長は主著「古事記伝」を仕上げるのに約35年もかけている。一方、篤胤が彼の主著「霊能真柱」を仕上げるのにかかった期間はたったの一ヶ月。面白いことに、篤胤自身は自分が如何に早く仕事を「功成」したかを自慢しているが。ちなみにデビュー作は27歳の時の「呵妄書」。ちょっと早すぎるような気がするが。宣長の仕事は一言で言えば古典文献学。この場合、当初の自分の意にそぐわないような古代人の思想が出現してしまうかもしれない。一方、篤胤は様々な古典を己れの想念の「手立て」として利用したらしい。では、この人の著作にどういう学的価値があるのかと言えば、ただ社会学的な関心、その一点のみと思われます。というのも、篤胤神道は、当時、かなり広範囲にわたって一世を風靡したので。ちなみに、宣長の方は、幕末期は分からないけれども明治後期になると、既に、人々の記憶からは消え去っていたようで、「本居宣長」(もとゐせんちやう)と発音する人がいたらしい(子安宣邦著「本居宣長とは誰か」参照)。それはともかく、宣長の死後、国学は急激に変態(metamorphose)するのですが、その顕著な特徴は、国学が救済論的な課題を帯びてくることらしい。著者によれば、篤胤神道の陽は日本神道に見えるが、その陰のシステムは天主教(キリスト教)らしい。マテオ・リッチの「天主実義」の翻案に過ぎないという意見もある。つまり、表向きは神道的な用語を使っているだけという話で、例えば、「産霊(むすび)」の原理とか出てくる。更に、一つの重要なペア概念も出てくるのですが、それが即ち「顕事」と「幽事」。実はこのペア概念は初耳なのですが、宣長が「古事記」研究の際、案出したものらしいけれども、篤胤は宣長とは違う用法で使用している。宣長は微妙に使っているのだが、篤胤はこの幽事概念を「幽界」(霊界)にしてしまった。著者によれば、篤胤は宣長国学を「あわてて」摂取した人らしい。ちなみに、宣長のこのペア概念と似たものが中世ヨーロッパでも見つかる。即ち、「顕」と「オカルト」。Occultのラテン語の原義は「hidden(隠された)」であり、一方、その対立語は「manifest(あからさまな)」ということらしいので(山本義隆著「磁力と重力の発見2」p.525参照)。そういうわけで、篤胤は言わば国学を装ったキリシタンと考えられ、彼の神道があれほど「国学の一般民衆化」(p.287)に成功したのは一重にキリスト教の威力だったからではないでしょうか。ちょっと時代は遡りますが、山崎闇斎と同時代の学者・熊沢蕃山は日本の仏教徒はやがてキリシタンに転向するだろうと言っている。なぜなら、キリスト教の教理の方が仏教よりも「上手」だから、とか言っている(田尻祐一郎著「山崎闇斎の世界」p.51参照)。日本の神道にはいろいろあるようですが、社会学的に重要なのは篤胤神道と垂加神道であろうと思われます。とすれば、この二つの神道の理念型(モデル)を明確にすることが課題と言えるでしょう。一方、宣長神道と言えば、これは超マイナーというか一つのセクトに留まったように思われ、といっても実際の信者は宣長一人だけだったのかもしれないが。本書には宣長神道の内容が論じられていますが、そこには「民衆救済」という志向性はないし、あと「敬」なる朱子学的教義も存在しない。本書を読んで分かるのは平田篤胤の最大の関心事は国学ではなくて「異界」(another world)だったということ。幽界論とか妖怪研究とか天狗小僧寅吉との対話とか。ちなみに、晩年の門人数は累計だが553人もいた、とのこと。