本書は,一般向けの読み物であるが,暴力や攻撃性についての最新の脳科学の知見から精神科臨床のトピックスまでが,分かりやすく紹介されている良書である。ここでは,さまざまな学術的文献で語られていることが総合されて,しっかりとわかりやすく記述されている。著者が多くの研究領域に精通し,広い視野を持っていることは,敬服に値する。
脳科学の目覚しい進歩には,今更ながら驚かされる。しかしこれは,論争の起こりやすい,いやむしろ,起こって然るべき領域である。災害被災者にPTSDを予防するための投薬を一律にするべきかどうか,精神療法の効率を上げるための薬物療法を行うおこなうべきかどうかといった議論が行われる時代が目前に迫っているのだろうか。読み進むうちに,人間の精神活動の生物学的な解明が進むにつれて,行過ぎた人間の機械論的な理解が一層はびこるのではないかという憂慮が頭をもたげてきた。人間が神経伝達物質や神経回路の動き,そしてそれらを規定している遺伝子に支配されるロボットのような存在という見方が強まるのではないかと感じたのである。これは,人間の行動を人為的に操作,誘導することに通じるものであろう。脳科学の知見の応用には,十分な議論が必要である。
本書の最後の部分では,人間がやはり生物学的観点のみでは割り切れない,極めてデリケートな存在であることが示唆されている。例えば,攻撃的行動を示す遺伝子を持つマウスが攻撃的になるには孤立の状態が必要であること,遺伝的に非攻撃的行動を示すマウスが経験によって攻撃的行動の遺伝子を持つマウスに対抗できるようになることといった事実である。マウスでも生物学的要因と経験要因との関連はまことに複雑であり,人間の場合は,さらに高度に両要因が錯綜しているはずである。人間の他に換えがたい特質は,そこにある。