当時(明治40年頃)の文壇ないし文学者の俗物的生理を抉り出した怪作? 理想や人生の高尚な思想を云々する前に、己の深層心理に潜む俗物性の「平凡」さに気づかない愚鈍さを四迷は風刺して見せた。これがなかなかの批評精神だった。ニーチェではないが「文学への意志」へのひねった批判である。
いろいろありましたが、結局のところ私の人生こんなもんでした、みたいなとりとめのない内容であるが、文士を諦めた主人公の古屋の半生は文学者の生理機構の俗物的平凡さそのものを描き出している。その批評は大上段に振りかぶったものではなくて、なんと言うか、斜め下からぬらりとやや脱力気味に切って入ってくる。「・・・ありのままに、だらだらと、牛の涎のように書くのが流行るのだそうだ。好い事が流行る。私もやはりそれで行く。・・・」思わずがくっと腰が砕ける。これがいい。何とものらりくらりとした優柔不断でしかも打算的な主人公の心の動きと、人を食ったようなどこか冷めた文体が奇妙に渾然一体化する。可能性を秘めた魅力的な文体であることは疑い得ない。
併録されている『私は懐疑派だ』はこの『平凡』の解説で、文学や哲学を語る文学者の底の浅深は、「思想」と「書く行為」との分裂の覚醒の度とけっして無縁ではない。四迷は高みに昇った文学を引きずり下す。自分の目線で見て初めて、けっこういいところもあるじゃないか、文学もすてたものではないな、この真の覚醒が四迷の真骨頂なのだ。