私は歴史には人一倍詳しいつもりでしたが、この本に書かれていることのほぼ全てを知りませんでした。この本が上梓されなければ、知らずに一生を終えた筈です。他の方のレビューにもありますが、戦後65年経ち、関係者もその子供も世を去ろうとしている時に、中国語の文献を含む驚くほど多くの史料を駆使して、戦後の日本人が全く知らなかった史実を掘り起こした著者に賛辞を送ります。筆者は、慶応大学を出て東京銀行に長く勤め、日本社会のエリートと言える立場にあった方ですが、大学生の頃から「チベット問題」などに関心を持ち、銀行員の勤務を全うする傍ら、研究を続けていた由。凄い方がおられるものです。
以前から「内蒙古で、自治政権を樹立した徳王」については辛うじて知っていましたが、「良く分からないが、軍閥の類」と理解していました。この本で詳細な履歴をはじめて知りました。徳王が、粘り強い努力によって、漢民族の支配を脱して、日本の後ろ盾を得たとは言え、はじめて内蒙古に「モンゴル人による自治」をもたらし、日本の敗戦後は、どこにも逃げず、最後まで内蒙古の自治を維持するために努力したが、報われずに獄死した「義士」であることを知りました。この本は、「徳王の名誉を回復した書」であると言えるでしょう。
また、戦前の日本陸軍が、当時の世界でトップレベルの情報力を持ち、特に中国とソ連に関する情報力では他列強を引き離していたことは、近年
日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか (講談社選書メチエ)などで明らかにされつつありますが、大陸におけるチベット仏教勢力とイスラム教(回教)勢力を支援することが、日本の国益にかない、かつモンゴル人、ウィグル人、チベット人らの福祉にもつながると判断し、軍人・官僚としてのキャリアや生命を賭した人々が、陸軍や外務省のエリートを含め、何人もいたことを知りました。後世の評判が香しくない、林銑十郎 陸軍大将・首相がその先覚者であったことは驚きでした。
現在、中国政府による過酷な弾圧、民族浄化が伝えられるウィグル(東トルキスタン)に、戦前の日本が様々な手段でアプローチし、ウィグル人の「民族自決」を支援しようとしていた(それが、日本の国益に叶うから、だった訳ですが)というのは、本書ではじめて知ったことです。そして、ウィグル人の文化そのものである街カシュガルを、2008年の北京五輪の後、「再開発」と称して消滅させようとしていること、北京五輪の直前に外国記者団がウルムチの街を中国官憲に案内されていた時に、中国官憲に夫や父を拘束されているウィグル女性や子供たちが自然発生的に数百人規模でデモを行い、外国記者団の目の前で「完全武装の中国官憲に、素手のウィグル人、それも女性や子供が立ち向かう」惨事が起きたこと、外国報道陣が中国官憲に取材を妨害されたこと、その直後に、武装した漢族男性たちによるウィグル人への「報復」が行われたことなどが淡々と記されています。
この本に書いてあることが、65年前の日本の敗戦で終わったことではなく、現在進行形の重大な人権問題である、というのを実感させる記述です。
この本のあとがきの最後で、筆者が
「この世に生を受け、この三作(
なんじ自身のために泣け、
大川周明の大アジア主義、本書
帝国陸軍 見果てぬ「防共回廊」)を残すという僥倖に恵まれ、もはや何も思い残すことはない。あとはただ、チベット、モンゴル、ウィグルなどの抑圧された諸民族が、一日も早く自由と幸福を取り戻すことを願ってやまない」
と述べています。「抑圧された諸民族が、一日も早く自由と幸福を取り戻すこと」は私も願ってやみませんが、1961年生まれの筆者はまだ50歳、「思い残すことはない」などと言わず、これからますます健筆を振るって頂きたいです。
筆者が『防共回廊』が実現していれば、東アジアの歴史は大きく変り、中華人民共和国と朝鮮民主主義人民共和国が生まれることはなく、億で数えるべき莫大な人命が失われることはなく、モンゴル、ウィグル、チベット、回民(中国各地に,小集団を作って暮らしているイスラム教徒。この本で詳しく解説されています)らの諸民族が、中国共産党の圧政下で塗炭の苦しみを味わうこともなかっただろうと慨嘆しているのには全く同感です。
「自分は歴史に詳しい」と自認する方にこそ読んで頂きたい名著として高く評価します。