世紀の変わり目の日本とアメリカの社会を、メディアで報じられた事件をエピソード的に取り上げて批評を行い、そこから、到達しえない「普遍」を志向し止めどもなく加速する現代資本主義社会の矛盾を、外部を「二重」に遮断するディズニーランドの空間構成と、スピードの快楽とその象徴的帰結の一つである砂漠のようなエアポート的自由の分析へと論を進める。そして最後に、グローバリズムが多文化主義と表裏一体であって、最近日本のみならず世界的に興隆しているナショナリズムはそのような視座から文脈づけをすることができるという、短いがこの本の白眉である「帝国」論が配置されている。文化批評的に最も刺激的なのは、娯楽消費的「内閉的な空間」がその対峙物(死)にもつうじていると示唆するディズニーランド論と、残滓としての身体が集う空港空間論であろう。著者の「超」(あるいは、ひいては「反」)形而上学的な、知を映し出す鏡としての「資本主義」を捉える構図は一貫しているが、終章「帝国」論で、一気に(俗な意味での)政治性を増し、前半の日本とアメリカ社会の批評的点描へと「循環」するという作りになっている。個人的には、著者も取り上げている90年代以降の「J化」は、日本文化の内発的な成熟などではまさかありえず、グローバリズムに誘発された外発的なものだろうと漠然とながら感じていたので、日本の最近のナショナリズムを論じた箇所に目が行った。