この本は、若手の英文学研究者が、サイードに触発された問題意識を発展させ、近代日本で英文学を研究する意味を実証的に論じたものである。取り上げられる(英)文学は、コンラッド、ジッド、スティーヴンソンといった西洋植民地主義を批判する要素を持つ作品ばかりであるが、それらについて中野好夫や中島敦といった日本の文学者がどのように受容したかが、植民地主義・帝国主義イデオロギーとの関連で論じられたのである。丁寧に資料を読んでまとめあげた労作であり、貴重な資料集であるとも言える。
ただし残念ながら、私は多くの不満を抱かざるを得なかった。たとえば斎藤氏は序章で「英文学がもつ道具としての限界と意外な可能性を再発見」したと書いている。本文を読んでみても、帝国主義的イデオロギーからの自由度によってのみ文学が評価されているようだ。しかし、いみじくも文学者たるものが、文学を道具として見なしてよいものなのだろうか。文学の評価は道具やイデオロギーの評価と同じで良いのだろうか。サイードのような文学者は、キプリングを帝国主義的人間として論難しながらも、偉大な文学者であると認めて尊敬し、文学固有の何かがあることを示すことも忘れなかった。しかし、斎藤の書物にはそういった問題意識は稀薄である。
斎藤氏は、終章において、「いつのまにか『英文学』からずれてしまった私自身を肯定してみたいのである」(167ページ)と述べる。いわゆる「英文学」からずれてしまうのは、全くかまわない。しかし、斎藤氏は一体どこに行ってしまったというのだろうか。文学研究を捨てて、歴史学の「帝国意識論」にくら替えしてしまうのだろうか。もしそうであれば、サイードやコンラッドのような難しい文学の議論はやめ、大衆小説のイデオロギー批判の研究を志すようになるのであろうか。このあたりが、どうにも不満として残ってしまうのだ。