あの『中国化する日本』の著者が、その前に書いた意欲的な昭和文化史。
『中国化〜』の過剰なほどの読みやすさと刺戟に比べると、本書は
人文書らしい体裁と行文で一気には読めないが、実におもしろい。
小津の、主に戦後の作品群をテキストとして、社会状況の変化を活写する。
しかし小津映画への関心の有無にかかわらず、大いに興味を喚起するはず。
著者自身、『中国化〜』の中でもコメントしていたけれど、あそこでの
コアとなる主張は、先立つこと10カ月、昭和の断面を小津作品という
視座から捉えた本書において端的に語られていた、といえそうだ。
たとえば、小津が一兵卒として出征した中国大陸の社会状況の定義は、
「高度に理念化された普遍的ヴィジョンの下で、所属集団なき個人の群れが、
急速な終結と分散を繰り返す動的な政治経済の情勢」(p168)とされる。
これは『中国化〜』で要約された「可能な限り固定した集団を作らず、
資本や人員の流動性を最大限に高める一方で、普遍主義的な理念に
則った政治の道徳化と、行政権力の一元化によって、システムの暴走を
コントロールしようとする社会」(『中国化する日本』p48)と呼応する。
著者によれば、そのような「中国化」が最も暴風化した時代が、敗戦直後の
日本社会なのだが、小津に関心がない読者も、著者が鮮やかに再現してみせる
時代と格闘する同時代の様々な文化人たちの相貌には目を見張るのではないか。
たとえば、愛読者が衰えない網野善彦の代表作『無縁・公界・楽』と、
『異形の王権』を、「戦後の〈中国化の季節〉に激しく魅惑されながら深く
傷ついた一人の青年による、生涯を賭したもうひとつの〈中国化の季節〉の
復元」(p184)と断じる4章は、本書の白眉。そこには、はしゃぎすぎた
竹内好もいるし、たちつくす丸山眞男もいる。
とはいえ、小津の戦後の諸作を従来の映画評とは違う視点から説いた手腕にこそ、
やはり本書の魅力を求めるべきであろう。とくに「呪わしき明治維新」と題された
最終章でじっくり語られる「東京暮色」の分析には、大いに感じ入ってしまった。
なにしろ1957年公開の同作は、戦後公開の15作の中で、「キネマ旬報」の順位
(60年代までの同誌のランキングの権威は我々の想像を絶するようだ)で19位。
これは歴代の小津作品中最低なのだから。この最終章はまた、ある仕掛けによって、
「東京暮色」のラストシーンを憶えている読者を、ぐっと映像的に惹きつける。
そして、「日本的」と鍾愛するものの根源、あるいは秘密に触れさせる。
繰り返そう。小津作品への関心の有無にかかわらず、本書はおもしろい。
だが、小津作品を愛し、古き良き「日本的なる何事か」の象徴、と思っている
読者にも、本書はまことに刺戟的な読書体験を与えてくれるはず。