北氏は小説家を志すにあたり、ふたつの目標を自分に課した。ひとつは、人生の四季を四編の小説として書き上げる事であり、いまひとつは、「ブッテンブローグ家の人々」を模した、自らの一族の物語を書き上げる事であった。これらは、彼の小説に馴染んだ者なら誰でも知っていることだ。そのうちの第二の目標は、「楡家の人々」に結実したが、第一の目標は未完のままであった、というのが、従来の彼の作品群に対する評価だろう。だが、「巴里茫々」を読めば、それが誤りだったことが分かる。なぜならこの作品は、四部作になるはずだった彼の四季の連作の第二作である、「木霊」の続編になっているからだ。彼は、「楡家」を書き上げた後で、不幸にも精神に病を得て、それ以降、本来望んでいたような作品を書けなくなった。無理が利かなくなったのだ。その苦しみをひた隠しに隠して、世間に対してユーモア小説作家として振舞い続けた。だが本心は、あくまでも他にあった。それが、「巴里茫々」で吐露されている。
「木霊」の女性は、「楡家」にも、三人姉妹のひとりの女性の姿に、その面影が投影されている。彼女は「木霊」の中で、主人公に稚拙な物語を書き送る。金髪のインゲボルグに模されているように、彼女は難解な小説に親しむタイプではなかったようだ。そうであるなら、北氏が「さびしい王様」のような読み物を書き続けた理由も理解できる。きっと彼は、すでに会うこともなくなったひとりの女性のために、彼の小説を書き続けたのだろう。「巴里茫々」を読めば、それが分かってしまうから、この作品は、彼の生前には、単行本としてついに刊行されなかったのではあるまいか。世田谷区松原の自室に籠りながら、彼の心はいつも、ひとりの女性を忘れるために船に乗って欧州へ向かった、青年の日々に戻っていった。「巴里茫々」はそんな事を想像させる、彼自身の手による鎮魂歌である。