●社会学者ピエール・ブルデューの代表作「ディスタンクシオン」(1979年)を読み解く試み。超難解と言われる「ディスタンクシオン」だが、ブルデューの本を数多く翻訳してきた著者の手によるだけあって、その解説はとても分かりやすい。しかしその分、ブルデューの議論の欠点(あるいは現代の日本人の感覚で納得できない点)も遠慮なく目に付いた。
●「ディスタンクシオン」とは、単なる「差別化」ではなく、階級的に優越することを志向する行為を含んでいる言葉である(P184)。ブルデューは、「自分の意思で行っているはず」(P308)だと思い込んでいる我々の洗練された趣味や行動は、この「ディスタンクシオン」に規定された「恥ずかしいまでに紋切型の身振りでしかない」(P308)と説く。
●しかし、我々ヒトが「他人と差別化したい欲望」(P7)をもっていることには納得いくが、そこにいつも階級的優越への志向が含まれているとはとても思えない(「
フランス上流階級BCBG(ベーセー・ベージェー)―フランス人の「おしゃれ・趣味・生き方」バイブル (光文社文庫)」なる本さえ出ているフランス本国ではどうか知らないが)。例えば、著者が差別化への欲求の例として挙げる日本の「カミナリ族」「竹の子族」(P255)やカップ麺の銘柄の多様さ(P286)に上流階級への志向性の片鱗は見られない。また、江戸町人文化における「粋」や最近の環境意識の高まりやサブカル系の活発化も、「ディスタンクシオン」の概念には馴染みが悪い(著者もそのことには気づいているようであるが、階級的な「卓越性」はブルデューの主張の要点でもあるので、この違和感を表だって批判することをわざと避けているように感じられる)。
●とはいえ、われわれ現代の日本人も部分的に「階級的卓越性」を目指す性向をもっていることは、やたらと高級外車やルイ・ヴィトンのバッグを買い求める男女の決して少なくないことからも疑いえない。そして、同じことがオペラ鑑賞や美術館めぐり(日本文化ならば能の鑑賞や茶道)などを「良い趣味」としてありがたがる人々にも当てはまる。これこそがブルデューの言う「ディスタンクシオン」である。もちろん、こうして難解な社会学書の解説を好んで手にしているつもりの私自身も、この「ディスタンクシオン」の罠にはまっているひとりに他ならない。