「差別される側」の立場から「差別する側」を糾弾することになりがちな(?)凡百の書とは全く異なる視点から、ヒトが「差別をする」ことの意味を問い直した本である。
もちろん、自分自身が差別の現場に直面した時、どう振舞えば良いかという実践的な内容にも触れられてはいる。だがそれよりも、この本のユニークなところは、差別という行為をヒトという動物の身に着いた基本的な生態の一つであることを確認した上で、そのような「差別する者」としての読者に、自覚的な選択を迫って来ることだろう。差別という行為が(「差別される者にとって」ではなく、)差別する本人にとってどのような意味を持つのかを考えさせられることによって、我々は深い自省を迫られるのだ。
筆者は言う。「差別という営みやそれを平然とやっている人は、…“ひととして貧しく、つまらない”」と。
それは差別することが「いけないこと」だからでもなく、差別することによって「差別される人が傷つくから」でもない。「差別すること」という行為自体が、あらかじめ与えられたヒエラルキーに盲従し、依存することであり、眼前の現実をその都度、自分自身のオリジナルな価値観と判断力とで評価する意思と権利とを放棄することだからだ。
そこではもはや「差別」は、「差別される者」と「差別する者」との関係性の中に存在する問題ではない。それはひたすら「差別する者」の生き方の問題、自己決定権の問題に収斂されるのである。
「差別すること」は、容易で、効率的な方法論である。だからもしかしたら、我々が社会的な成功を収めるためには、その方が近道かもしれない。だがそれは同時に、あらかじめ存在している他者の評価に依存して、眼前の事実を自分自身で評価する責任から逃避する行為でもある。
「あなたはどちらを選ぶのか。」筆者から投げかけられた問いであると思う。