「山椒魚」(幽閉)は、若き太宰治をして「埋もれたる天才」と評せしめた小品。その佇まいは飄々としながら屈託している、独特のユーモアのなかに含羞がある。それは「山椒魚」に限られない、井伏鱒二その人の佇まいである。
氏は生前、詩人と呼ばれることを非常に悦んだという(河盛好蔵「人と作品 詩人井伏鱒二」井伏鱒二『厄除け詩集』講談社文芸文庫113頁)。その反面、自らの詩については「詩のような形」で書いた、というはにかんだ言い方でこたえている(大岡信「こんこん出やれ―井伏鱒二の詩について」同138頁)。むぅ。井伏作品の読後感のように、なんともいえない微笑みが、思わず漏れ出てくる。
井伏氏には拭い難い厭世癖があった。それを受け容れる寛容さがあった。氏の作品中には、善人ばかりが出てくるわけではない、かといって、極悪人が出てくるわけでもない。しかしどの人物もなぜだか実にほほ笑ましく見えてしまう。一種のノスタルジーがそうさせるのかもしれないけれど、過去を美化したり否定するようなズカズカとしたノスタルジーなどでは決してない。厭世癖は、あくまで厭世癖であった。世の中を軽蔑しきれなかった。冷ややかな現実観察には常に温かさがまとわりついていた。
この『山椒魚』には、短編の代表作が収録されている。ただ、「鯉」は収録されていない。それは岩波文庫版を参照されたい。己のなかに厭世癖を感じ取る人、何気ない温もりが嫌いでない人、井伏作品を読んだことのない人には、お勧め。有名な『黒い雨』よりこちらのほうが、私は好きである。しかし「駅前旅館」はじめ、井伏作品が最近絶版気味であるのは、少々もの哀しい気がする。