カレル橋に始まるプラハの街案内を予期しつつ読み始めると、次第にその予期は裏切られて、「住人でもなく、旅行者でもない」著者の日常生活空間に引き込まれてゆく。ビロード革命前は「大切なことは、電話で話さない。手紙に書かない。酒場で話さない」ことが常識だった人々の代わりに、「プラハの春も革命も学校で習った」という手合いが台頭しつつある環境の中で、その日常生活空間を彩る一つは、著者は意外にも「チェコのワイン」を挙げている。≪支払うお金を考えるのなら、ワインはオーストリアーチェコ国境の北側に限る≫と語る「パブロフのワイン」は本書十七編のエッセイ中の白眉といえよう。だが、それは欧州大陸のワイン生産北限云々についての著者の薀蓄の故ではない。例えば次の一節。
≪ワインを飲むなら郊外の森の中の青天井か、さもなければ地下に限る。それも独りで飲むに限る。酔うにつれて考えたこともないような言葉が頭の中からわき出す。自分はその中に入って行ける。つまみはチーズが数片あればいい≫ ・・・「森の中の青天井」や「地下」はおいそれと望めない「極東の大都」に住む身には、ワインはやっぱり、好きな女性と二人で気の利いたレストランで飲むものだろうなと思いつつ読み進めると、もう一度≪ワインは一人飲みに限るのである≫と繰り返し、≪異性と飲むのは嫌いだ。ワインの酔いの饒舌がどうしても「男女間のクールなやりとり」になってしまい、それがつまらない。≫という文章の次に、≪男女のワインのやりとりにはその先の「淫行」の予感を前提とした無言の契約が感じられる≫と、わが下心をグサリと突き刺す一文が続く。開高健も思わず我が意を得たり!と泉下で膝を叩いているのではあるまいか。
こういう感性を持った著者の鑑識眼によるエッセイが面白くないはずがない。腔腸動物のようにうねった旧迎賓館「ホテルプラハ」での朝、ベツレヘム礼拝堂近くのカフェバーで食べるクネドリーキやシュニッツエルのランチ、長年の友人Pとの数々の思い出、棲みたかったキュビズム建築、20年前のプラハ娘との市電デート、などどのエッセイをとっても、著者の専門領域が「写真家」「カメラ評論家」であることなどすっかり忘れてしまう。かのチェコのワインもきっとこのように熟成した味わいであろうと想像させられる。