日本と琉球のかかわりでは特筆すべき2つのことがある。
ひとつは、薩摩島津藩の琉球侵攻である。
1609年(琉球暦万暦37年・和暦慶長14年)島津氏は琉球が朝鮮出兵の兵糧の供出に応じないことを
きっかけに、3000名の兵を率いて3月4日に薩摩を出発、3月26日には沖縄本島に上陸し、
首里城にまで進軍した。狙いは民国と琉球の貿易液の横領であった。
島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて対抗したが
武器を持たないかれらに勝ち目はなかった。
4月5日には尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。
これ以降、琉球王国は薩摩藩の付属国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられ、
江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。
その後、明・清にも朝貢を続け、薩摩藩と清への両属という体制をとりながらも、
琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。
薩摩藩は、琉球にあくまでも中国へ服属していることを装わせ、
在琉球の役人は中国の冊封使が来たときは身を隠していたという。
もうひとつが、琉球処分である。
1871年、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄としたが、
1872年には琉球藩を設置し、琉球国王尚泰を琉球藩王に封じた。
1879年の琉球処分により沖縄県が設置され、沖縄県令として鍋島直彬が赴任するに至り、
王統の支配は終わった。
琉球の王族は、日本の華族とされた。
この後者の顛末を描くのが本書である。
ところで沖縄の人はよく、差別に言及するがその沖縄は奄美大島を差別していた。
薩摩の琉球侵攻後、奄美は琉球の支配を離れ、薩摩藩の直轄となるが、
その際、本土の詩文と区別するため 一文字姓を名乗らせるようになった。
奄美の姓では
平(たいら)、恵(めぐみ)、政(つかさ・まさ)、碇(いかり)、鎮(ちん)、芝(しば)、
武(たけ)、 西(にし)、泉(いずみ)、東(ひがし)、中(あたり)、住(すみ)、
渡(わたり)、岡(おか)、柏(かしわ)、 栄・榮(共に“さかえ”)、榊(さかき)、
滝(たき)、牧(まき)、里(さと)、仰(おおぎ)、前(まえ)、重(しげ)元(はじめ)など。