そうなると、自分で自分を律するものがなければ容易に自己を見失い、不安にのみ込まれる。近年、哲学書や宗教書が読まれるゆえんだ。
本書の中江藤樹も、久しく忘れられていた思想家だが、復活の兆しがある。
藤樹が生きた時代は、徳川幕府が体制を固め、各藩も軍人主導から官僚主導に急変化した。本書にもリストラされたり、変化に対応するために自己啓発にいそしむ武士たちが出てくる。
主人公の藤樹はもともと文の人で、朱子学者として若くして大洲藩内で頭角を現す。ところが、学殖を深めるにしたがって、幕府が朱子学による武士の馴化を推し進めていることに疑問を持つ。だが藩は、幕府を恐れて林羅山の弟子を登用する。その結果、藤樹の教える朱子学と、羅山の弟子の朱子学は鋭く対立することになる。結局、藤樹は藩の厄介者的な立場になり、支藩に追いやられる。そこで、藤樹は脱藩して郷里の近江に帰る。
帰郷した藤樹は、まず最初に刀を売ってしまう。あっさり武士を捨てるのだが、この場面がいい。左遷が契機になったとはいえ、内面の欲求にしたがって、もっと積極的に新しい人生を生きるために、藤樹は脱藩した。それが刀を売る、という行為になるのだ。
著者の描き出した「聖人」中江藤樹像は、非常にわかりやすい。藤樹書院での庶民を相手にした講義は、まるでソクラテスのように対話で行う。そして弟子たちに「人間は誰でも"明徳"を持っている。ただ、それに気がつかない。気がついても磨かないと曇ってしまう。だから、自分で毎日磨こう。そうすれば、誰でも聖人になれる」と説く。
「人間は誰でも心に明徳を持っている」というのは、一種の平等主義であり、人間主義であり、ひいては自己責任原則にも通じる。
中江藤樹は、日本の陽明学の祖といわれる。陽明学といえば「知行合一」。良いと知ったら行わねばならない。少し怖い思想だと思っていた。
だが、著者の描く藤樹は「時・処・位」といってそれぞれの人が、それぞれの立場でできることを行えばよいと説いている。それなら、我々平凡な人間にも受け入れられる。
ところで、著者は中年男の涙腺をゆるませるツボを心得ている。電車の中で読む時は、不意を食らわぬよう心されたい。
(ジャーナリスト 野口 均)
(日経ビジネス1999/7/5号 Copyright©日経BP社.All rights reserved.)
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