例えば「ポオル・ヴァレリイ」に関しては、次のA,B2種類の”註解”が用意されている。A《フランスの詩人。思想家。1871年生れ。詩篇に「若きパルク」、詩集に「魅惑」、評論に「ヴァリエテ」など。1945年没》、BはAの簡略文《フランスの詩人。思想家。1871年生れ。1945年没》。AはP65,125,140,160,172,197,211,241の8箇所、BはP181,183,189の3箇所に散見されるが、果たして誰がこの粗雑な註解を読み、何を理解し、ひいては小林秀雄の作品理解や昧読の手助けになるというのだろうか?同じことが、ボオドレエル、ジイド、ランボオ、ベルグソン、ドストエフスキイなどについても云えることだ。現代仮名遣いで刊行された「小林秀雄全作品」ならともかく、歴史仮名遣いで読む本全集の読者に対して、このような平板で奥行きのない既製品”註解”は全く無用であるまいか。
人名ばかりではない。アトランダムに拾っても、「呑舟の魚」《舟を呑むほどの大きな魚。転じて、善悪ともに常人のスケールを超えた大人物》、「天幕」《テント》、「警句」《奇抜な着想で真理を鋭くついた短い言葉。アフォリズム》、「唯物論」《物質のみを真の実在とし、精神や意識はその派生物と考える哲学上の立場》等々。
つまりこの”註解”集は、一般の辞書・用語集以上に小林秀雄の各文章に何かを付加したり、相互に関連付けたり、或いは一句一行を深く掘り下げてゆくものではない。それが、一冊¥9,450で小林秀雄全集の「補巻」として刊行されていることに、薄っぺらな商業主義が匂う。今月号(2010年9月号)の新潮社「波」中、小林秀雄全集編集室長が「全集の完結に寄せて」というタイトルで能天気に”お疲れ様でした”とノホホンとしている一文を読むにつけても、泉下の小林秀雄の苦虫を噛み潰した表情が浮かんでくるようだ。