村上春樹の小説『海辺のカフカ』内にこんな場面があります。
「音楽には人を変えてしまう力があると思う?」
大島さんはうなづいた。「もちろん」と彼はいった。
「そういうことはあります。何かを経験し、それによって僕らの中で何
かが起こります。化学作用のようなものですね。そしてそのあと僕らは
自分自身を点検し、そこにあるすべての目盛が一段階上にあがっている
ことを知ります。自分の世界がひとまわり広がっていることを。」
孤高の天才ピアニスト、A・ブレンデルの複雑な「内面」と音楽に対す
る真摯な「姿勢」を本書を通じて知ることで、私たち読者はクラシック
音楽の深遠を凝視し、純粋にもっとよい音楽を聴きたいと思うだろう。
「すべてはシンプルにしなければならないが単純にしてはならない」
「演奏者はどのようなことにも感情移入できなくてはなりません」
「よい演奏というのは非常に複雑な相互作用の結果です」
「カオスは秩序の花の中から仄かに光り輝かなくてはならない」等々
生涯を通じて力量を高めていく、ピアニストという職業で最も難しい決
断は「どの曲」を「いつ」(誰と)弾くかである。そこでブレンデルは
次のように言う。
「どんなに努力しても、全てのレパートリーを弾くことはできない。
だからなるべく早い時期に、どういった作品と一生向き合っていきたい
かを決めたうえで、絶えず新しいエネルギーを発する曲や、弾き手を新
鮮な気持ちにする曲を自問自答しながら選択すること」が重要と。
そして、ケンプやフィッシャーといった過去の巨匠ピアニストに対して
は「とにかく焦らずに一歩一歩彼らに近づいていこう」と考えて努力す
ればよいという。
本書に散りばめられたブレンデルの深い考察からなる本書は、音楽のみ
ならず広く芸術や人生全般にあてはまる奥行きを持っている。