ヘルマン・ブロッホの「夢遊の人々」を読んで、同じユダヤ人のドイツ語作家のカフカと印象が対照的だと思ったのをきっかけに、以前読んだはずのカフカの小説をもう一度読んでみようという気が起こって、「審判」を手に取った。一読して、作家の強い批判精神が、物語の筋や人物造形、出来事の推移に一目瞭然に示されている。とても毒気の強い、世間に対する最大級の唾棄が、直接に言い当てて批判する一言も記さずに仄めかされている。主人公の落ち込む状況、そこから自分の潔白を証明したいという願望は、作家が絶望の上に目指し、果たそうとする創作への取り組みと二重写しに見え、彼を取り巻く全ての登場人物は、彼の意思を打ち砕こうとする意図で彼に関わっている。主人公は常に「自分たちに従え」という他者の声を聞かされる。「諦めてしまえ」「望みを捨てろ」「生きながら死ね」「死につつ生きろ」、彼を従わせようと、手なづけようと、たぶらかそうと、あらゆる登場人物が主人公に近づき、そんな中で最後まで諦めなかった主人公は最後に殺される。犬のように。そして屈辱だけが地上に残る。この作品は全体主義の到来、官僚制の膨張と恐怖を予言したと評されるが、本当は、いつの世でも、どの場所でも普遍的に該当する状況を描いたものと読める。そうでなければ、世界的な名声をカフカが得て、今も失われず言及され続けることはないはずだ。この状況を回避しえる時代や場所のほうが希少なのではないか。
再びカフカを読んでみて、手法は対照的としてもブロッホの小説と共通した問題意識をもっていることが確認できた。しかし、前もって彼の小説に感じていた無時間性に就いては、誤っていなかったようだ。非常にスタティックな悪夢。