アイルランド生まれで英国デヴォン州に暮らす英文学界の重鎮トレヴァーが2004年に発表した心に深く染み入る12編を収めた円熟の短編集です。著者は1928年生れで本書は76歳の時に執筆された作品であり、その後2007年にも短編集が出ているという事で、その健筆振りには本当に驚かされます。本書に収められた12編の多くは、思うようには行かない苦い人生の中で、それでもそれが必ずしも不幸だとは限らない事に気づいた男女が、ささやかな安らぎと幸せを感じる一瞬の心模様を切り取った物語になっています。『死者とともに』では、粗暴だった夫が急に亡くなった夜偶然に訪ねて来た客に思わず生前の夫への不満を吐露して心の平安を得る老妻を、『夜の外出』では、初対面のお見合いデートで互いに相手の嫌な本性を見抜きながら、険悪にならずに割り切って潔さに感謝しつつ別れて行く男女の心の高揚感を、『ダンス教師の音楽』では、お屋敷の召使として一生を送り晩年を迎えた女性の人生に常に寄り添ってきた心に鳴り響く奇跡のような音楽の調べが描かれています。私が読んで最も心に残った2編を紹介します。『孤独』:幼い頃に母の浮気相手を誤まって殺してしまった少女の心を労わりながら、放浪の旅に出て3人で生涯を過ごした両親との人生を描きます。少女が老いて独りになった時、彼女の心中に賢い老紳士が現れ両親の抱えていた真実を教えてくれます。『密会』:不倫関係の中年男女が幾度も密会を重ねるが、やがて倦み疲れ未来に訪れるであろう不幸を恐れて別れて行く。愛は壊される事なく激情に流されず穏やかに暫し思い出を胸にとどめながら。
本書に描かれる世界は静謐且つ穏やかその物で少し古めかしい印象もあって、現代社会の息吹が感じられず動きが少ない物足りなさも多少はあります。けれど、やはり普遍的な人生の真実を数多く含んだ深い感動を味わわせてくれる小説世界は、今の世の中に於いては誠に貴重でかけがえのない物だと思います。