吉本隆明さんが亡くなったあと、何冊か主だった本を読み返している。
本書もその一冊だ。
『言語にとって美とはなにか』や『共同幻想論』で知られる著者であるが、わたしは『最後の親鸞』と並んで本書も<主著>のひとつだと考えている。
じっさい、宮沢賢治論としては創見に満ちていて、すばらしい<達成>である。
書簡から賢治の足跡と心境をときほぐした「手紙で書かれた自伝」にはじまり、その詩や童話にあらわれる独特の擬音や喩法を解析した「擬音論・造語論」にいたるまでの全6章は、宮沢賢治を多角的に照らし出して抜かるところがない。
とりわけ引かれるのは、「父のいない物語・妻のいる物語」と「『銀河鉄道の夜』のほうへ」のふたつの章だ。
「父のいない物語・妻のいる物語」では――「銀河鉄道の夜」に、なぜ主人公ジョバンニの父が登場しないのかが探られる。
ジョバンニの父はわずかに会話のはしばしで触れられるだけだ。
しかも、遠洋漁業に出ているのか、航海の途中で何かの<いさかい>に巻き込まれて監獄に入れられているのか、判然としない。
登場人物も、われわれ読者も、ジョバンニのお父さんはどうしているんだろう……と考えていくと、その像はフェイド・アウト(溶暗)してしまう。
著者はいう。
《「銀河鉄道の夜」という作品は、闇の中に掲げられたマンダラ絵図のようなものだ。作者の光線は中心部にあたっているだけだ》(83ページ)
《登場人物のすべては、輪郭をもたない人物の像に変貌し、現実でない雰囲気のなかにおぼろ気に浮びあがったホログラフィックな映像に近くなって、かえって鮮明にされる》(94ページ)
こうして、「銀河鉄道の夜」全体を包む、あの微かで夢幻的な世界の秘密を一気につかみとる。
さて、「『銀河鉄道の夜』のほうへ」では――著者・吉本は、途中から銀河鉄道に乗り込んできた「鳥捕り」に注目する。
ジョバンニは、みすぼらしい身なりをしながら、どこか小ずるそうな「鳥捕り」を軽くばかにしている。ところが、「鳥捕り」が「雁の黄いろな足」をさし出してくれると、それを食べ、食べてから「大へんつらい」と感じる。
なぜか?
この場面を引いて、著者・吉本は書く。
《鳥を捕る人のようにふつうの平凡な善いひとにたいして、それを照りかえしたような軽いあなどりが無意識にこころのなかに生じるのは、ごくありふれたことのはずだ。だが作者のなかにある「ほんたう」の感受性では、この無意識の軽いあなどりは……いちばんあってはならない感受性なのだ。この敏感な極微のこころの揺れを言葉のピンにとめていることは、宮沢作品の芸術的な本質である》(221ページ)
宗教家でもあった宮沢賢治の<思想>の核心を、こうして抉り出す読解はさすがである。