神田駿河台に立つニコライ堂。この聖堂を建てたロシア人宣教師ニコラ
イは1862年、25歳の時、シベリアを横断して、ロシア正教布教の
ため函館に渡って来た。幕末当時の日本、いや明治に入ってからですら
キリスト教は、弾圧というより、依然として根強い排斥を受けていた。
布教活動は零からの出発といっても過言ではなかった。その中で日本列
島を北から南まで隈なく歩き回り、キリスト教を受け容れてくれる日本
人を探し続けた。拠点となる教会も各地に建てなければならなかった。
当然、多大な金を要した。彼の50年にわたる日本での布教活動は精神
の孤独、肉体的疲労、金銭的心労に蔽われ尽くしていたといっても過言
ではない。しかし日本全国を旅して美しい自然に接した時は日頃の疲れ
を癒して余りある喜びを抱くことが出来たようである。
彼は日本に来る前、日本民族は非宗教的であるというロシアにおける一
般的認識を聞かされていた。しかし朝の日の出に向かって祈る多くの日
本人を見たニコライは、日本人は必ずしも非宗教的だとは言えないとい
う認識に達していた。しかしロシアを初めとするヨーロッパ人と比して
、日本人はより宗教的か?という問いに対するニコライの答えは本書で
は明らかにされてはいない。
本書は50年にわたるニコライの膨大な日記をレニングラードの文書館
倉庫の中で発見した中村健之介氏によって書かれたものだ。ニコライの
日記の全貌は、その整理編纂を経てやがて世に出るはずで、そこで初め
てニコライの目に映った日本人の宗教観もより鮮明になるに違いない。
それとともに幕末から明治の日本を隈なく行脚したニコライの日記は、
ともすれば支配者側の記録に偏り勝ちだった日本の歴史に新しい光を当
てることもあるはずである。ニコライは布教活動の運営資金に苦慮し続
けたので、当時の物価についても事細かに記している。興味深いことで
ある。
ニコライは1879年から1880年にかけてロシアに一時帰国してい
る。枯渇の危機すらあった布教資金の増額を教会本部を始め資金拠出を
頼めそうなあらゆる人々に頼んで回るのが、帰国の最大の目的だった。
幸いにもニコライは目標を上回る成果を上げ、以後、日本での布教活動
は安定した拡大期に入っていった。ロシア滞在中のニコライはさすがに
同胞に混じって、金策に飛びまわりながらも孤独感からの解放を味わっ
たようである。ドストエフスキーに面会する機会にも恵まれた。割合普
通の男で咳をしていて肺病病みのようだった、というのが文豪と会った
時の彼が抱いた印象で、深く感動したというほどのことはなかったよう
である。逆にドストエフスキーの方か、異教徒の黄色人の中でロシア正
教の布教に努めるニコライに感銘を覚えていたようである。
ともあれロシア帰国期間に関して、本書ではドストエフスキー文学とキ
リスト教との関わりについて、著者中村氏の思いがほとばしり出ている
ような気がした。中村氏がニコライの日記発見に至った糸口は実はドス
トエフスキーとニコライの間に交わされたと思われる手紙にあったから
だ。若き日、ドストエフスキーに傾倒した中村氏はドストエフスキーを
読みたいという単純な理由でロシア語を学んだ。ニコライとドストエフ
スキーという線から、ドストエフスキー文学にもっと深く入って行ける
のではないかというのが、中村氏がニコライの日記の探索を始めたきっ
かけだった。中村氏の情熱は関東大震災で日記は焼失したという日本人
の常識を超えて、アメリカ、ロシアへと彼に発掘の努力を諦めることな
く続けさせた。シュリーマンのトロイ遺跡発掘ほどファンタジックでは
ないが、中村氏が発掘時に味わったであろう興奮もまた想像するにあま
りあるものであったにちがいない。著者はその点では、あとがきでさら
りと触れるにとどめているが、幻の日記の発掘というものすごい成果の
うえに控えめに本書が載せられていることを踏まえると、この本に対す
る興味は一段と増さざるを得ない。