日本人の書いた「行動経済学」の解説本としては、
多田洋介氏や
友野典男氏)、そして最近では
依田高典氏のものがあり、ベーシックな部分はそれらの著作に譲ることとし、ここではリチャード・セイラー教授(シカゴ大学)とキャス・サンスティーン教授(ハーバード大学)の主唱する「リバタリアン・パターナリズム」に的を絞ってみたい。この考え方は、人間の「限定合理性」を前提として、「選択の自由」を保障しつつ、「インセンティブとナッジを適切に配置することによって、人々の生活を向上させる能力」を高め、「社会の重大な問題の多くを解決できる」ような「選択アーキテクチャー」を構築することである(本書p.22)。
この人々をナッジ(誘導)する「選択アーキテクト(設計者)」、具体的には為政者等になるわけだが、彼らに関して前掲の依田高典氏は「人々の限定合理性を信奉する立場が、なぜ為政者に対しては合理性を仮定できるのか」と疑問を呈し、圧力団体のロビイングなどによって「為政者といえども最適な行動からは乖離するだろう」と述べ、「失敗した計画に対する安全装置を作る必要」や「市民も為政者も限定合理的であるがゆえに、お互いの選択の自由への干渉に対する抑止力を持つような仕組みが必要」としている(『
行動経済学』pp.188~189)。「選択アーキテクト」について、これはこれで尤もな疑念であろうと思う。
こうした「選択アーキテクト」などに係る隘路の解決方法として、これは政治学又は政治哲学の領域に入るのだけれど、私はコミュニタリアン的な概念である「熟議民主主義」といったものを提起したい。この手続が「共通善に基づく政治」(
マイケル・サンデル)をもたらすとともに、「共通善」による「選択アーキテクチャー」を創造し、ひいては“負荷なき市場主義”(私の造語)に対する「市場の道徳的限界」(サンデル)も定めるのではなかろうか。なお、「共通善」を「限定合理性(非合理性)の塊ではないか」と異論を挟む余地もあろう。このことに関しては、「私は過去を伴って生まれたのだ」(
アラスデア・マッキンタイヤ)という言葉で留めたい。