「純粋理性批判」から7年後に発表された著作。前作が、考えることによってどんなことでも知りえるという独断論、考えることによっては確実なことは知りえないという懐疑論を共に斥け、考えることによって知りえることはどんなことかという批判哲学を打ち出して、思弁による限界設定を成し遂げた、ということが、この「実践理性批判」が表された理由に直結しているのだと思う。
前作では、知性を統御し活性化する理性に一定の限界を付していた。知ることのできないことは結局知っているようにはいえないということ。それが「純粋理性批判」の成し遂げた歴史的功績でもあるのだが、一方では、理性のなしえることに限界があるということを明らかにしたことによって、「考える」という行為だけでは到達できない境地があることも明らかにした。本書では、前作で制限を付された理性に対する更なる擁護という性格がある。
本作では前作で取り上げた理性の側面を「純粋理論理性」とするのに対して、ここでの考察の対象を「純粋実践理性」とする。それが関わるのは、人は如何に生きるべきか、という問題で、そのつながりで道徳性の詳しい分析がなされる。
前作が「世界はどのようなものか」という問いに答えるための説明原理の限界を設定したのに対して、本作では「自分はどんな風に生きるべきか」という問いに答えるための原理を探求する。前者と後者を分けるのは、理性に意志が関わるかどうかで、後者の場合に人間の持つことのできる「自由意志」が理性に機能することによって、前作で制限を付されていた理論理性は解放される。理論理性では不死・自由・神の実在性は証明できないが、それらは道徳性の原則に基づく実践理性によって実在性を確信でき、各人はそれらにより近づこうとすることでより確信を持って生きていけるようになる。
ここでの自由意志は、自然界の原因ー結果の連鎖とは別に何事かを始めることのできることを指していて、ここでは、快不快の原則に基づいた無数の傾向性から独立して道徳性を志向できる基として重要視されている。
快不快に基づく傾向性が常に異なる他者基準で動くために安定性をもてないのに対し、尊敬や義務に基づく道徳性は一定の基準の下にあるために心の安定性をもてること、自らをより高めようという動機を各人に与え、理論理性に確信を与える実践理性の仕組みが展開していく。
読み終えてみると、自分がどれだけ道徳性というものを取り違えていたか、あるいはそんなことを考えずにいたかを気づかされる。ここで説かれているのは自分をより強くするための原理としての道徳性であって、他の人を抑圧するための説教ではない。その意味で、ここで解明されていることは読者に個人的に効いてくるのだと思う。
カント本人について言えば、家庭教師に8年間、私講師に15年間と、身分的には不遇の時期が続いたにもかかわらず考え続けることを捨てなかったのは、目指す目標自体が考え続けることと結びついていたことと、目標のための優先順位が出世よりも考え続けることのほうが上だったからだろう。忘れられがちなことだが、目標が違えば優先順位のつけ方自体が変わるし、本来すべての人が同じ優先順位を持つことはあり得ない。ここでも、快不快原則に基づく生き方と、道徳性原則に基づく生き方とは、優先するものが違うことが示されている。
どんな著作でもそうだが、これは特に読み手の問題意識とシンクロするかどうかで理解のし易さや効き方がだいぶ違ってくる一冊だと思う。