著者自身による懇切丁寧な解説があるので、レビューする必要はありませんが、(主宰誌散逸の為か)著作集出版が絶望的な孤高の思想家・田川建三を読み解きたい方にとっては、(表向きは)空白の'80年代と、著者の原点を再確認することが可能な書でしょう。「批判的主体の形成」(1971),「思想的行動への接近」(1972)で提示された、宗教的なるものを必要とする現代社会批判から、思想の軸足のブレはまったくありません。ただし、今回の再刊にあたり、註記として様々な説明を入れざるを得なかった現在の著者の心境の複雑さがしのばれます。(当時の読者には俎上にのぼす人物・著作については、まったく説明を要しなかったこと自体も驚きですが)
「第一部一.人は何のために生きるか」は、著者のアフリカ体験を踏まえて読むべきでしょう。(初出が逆になりますが)「イエスという男」、「書物としての新約聖書」で示された帝国支配と支配言語、それらとの原始キリスト教の関係の精緻な分析へとつながります。「第一部二,三」は帯の惹句どおりの内容。「第二部」は、サブタイトル「翻訳に現れた思想の問題」そのものずばりの評論集です。これも、「書物としての新約聖書」に結実します。「第二部一」は、共同訳への論評、「第二部二」は、宗教家が持つ「書いてあることを読まず、書いてないことを読み取ろうとする」心性への皮肉交じりの評論、「第二部三」は、E.ブロッホ(と翻訳の)批判。
「第三部一」は、著者が日本のキリスト教作家の中で、唯一人評価していた故・遠藤周作氏に対する本格的な批評です。「附論-論争以前のこと」は、完全に勝負ありの感がありますが、著者がいうところの「タイプライターなみの速筆」で鳴らした論敵氏も、お弟子さんを総動員すれば、ブルドーザー並みの仕事が達成可能なのを既に立証されておいでです。奇麗事では決して済まされない「業界」に、肌が粟立ちました。