本書で展開されるのは、いわゆる構築主義系統の国際関係論であり、要するに国際政治に対する認識のフレームから変えにかかろうとする議論である。
筆者は、従来的な主権国家を構成単位とする国際社会・安全保障体制の制度的思考を批判する。
現実主義は、そのように「現実」を捉えているが、実際には主権国家を基軸とする状況は次第に融解してきている。
端的に言えばそんな感じの議論である。
けれど、そういう話はコスモポリタンなどにより昔から繰り返されている「国家主体の現実主義」批判とさして変わらない。
だからわざわざ「言語論的転回」だの「脱構築」だのを持ち出してやたら難しく論ずる必要はないように思う。
個別の議論、例えば湾岸戦争における「アメリカ=善、イラク=悪」という構図はメディアが作ったもので普遍的でない云々の話とかは、構築主義とかそういうのを持ち出さずともただ「湾岸戦争がアメリカ=善であるとは限らない。例えば〜という事例がある」とか言えばいいのであって、要するに普通の国際政治の議論である。
個々の指摘では、平和活動が実は自分たちの平和な状態を維持し、難民を紛争国に閉じ込めておく意味がある、などという鋭い意見もあるのだから、変に難しい言い回しで埋没させてしまうのはよろしくないと思う。
あと、筆者がしきりに現実主義者などを「バックラッシュ」と罵倒するのだが、あれはあまり頂けない。
これはレッテル貼りだから云々というのもあるが、「バックラッシュ」という発想自体、自分たちの主張が「最新でいいもの」であり、それに対し反対者は「古くて時代遅れの(間違った)もの」を主張している、という構図にのっとっている。
結局、「最新=現実」を認識の枠として自ら措定して、その反対者を「最新=現実ならざるもの」として叩くという構図は何も変わっていないように思う。
結局自分を他より先駆けた・高みに出た存在とみなし、自分のフレームに入ってしまうあたり、まさに自分の批判が自分自身に当てはまってしまい自己論駁的だし、だからいつまでたっても構築主義は「言葉遊びに終始する」との批判を受けてしまうのではないだろうか。