現在では国際大学とスタンフォード大学の研究所で研究執筆活動をしている東氏の最初の著作。何かを本に書くこと「によって」なにかを伝えるのではなく、「ただ何かを伝えること」に徹した本です。
「欧米人はこのような仕方でものを考える」ということを、欧米人的でない認知の仕方を読み手が必然的に行ってしまうような文書を書くことで、裏側から示したのがデリダの「脱構築」ですが、「脱構築」自体がそういう性質のものだから、「脱構築とはこういうことです」という説明を経験科学的に構成する(コンスタティブに行う)のは難しいと思われていた。それをやってしまったすごい本、という訳です。
この本は「デリダは何故あのようなテクストを書いたか」という問いをたて、それに答えようとすることから初まり、次にそれをいったん破算にし、ハイデガーとフロイトを対置する方法を用いてなんとかデリダを説明しきろうとするものの、その「説明しきれるかもしれない」という欲望を最後には捨て、デリダの脱構築をする「ように」振舞うのですが、そのとき結果的にある限界まではデリダを説明しきるっているわけです。そういう意味でこの本はウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」に似ています。
東氏はコンスタティブな(暗黙の了解を前提にせずメッセージの効果も期待しない説明的な)方法に関わりつづけており、その後記号能力に対する偏執的な性向(オタク)の研究かつ自己分析に向かい、現在では、「コミュニケーションの成立とは?」という問いに迫っているGLOCOMおよび今井賢一氏のスタンフォードに籍をおくことを選んでいます。氏の態度および経歴はヨーロッパ哲学よりも英米の経験論および、現代科学に近いように思われますが、東氏の「コンスタティブな哲学」の科学への親近性はまた、浅田や柄谷の共同体主義的な批評空間から氏を遠ざけているものかもしれません。