この本は置かれてある棚こそ「霊」や「超常現象」といった所であるが、もちろんラジニーシの思索はオカルトや「啓発」モノとは次元を異にする。かといって本書は「常識をひっくり返す」類の書でもない。そのような知的作業・概念的興奮は西洋哲学で十分に体験でき、その段階にとどまっている西洋哲学に任せておけばよい。ラジニーシの知恵は認識転換のなお上を行く。究極の体験においては体験者はいない…個人信仰も独我論も超えている。そこにおいて存在は大河となる…万物流転が1ページ目で確認される。一切は消え行く。仏教はそう教えてくれるが、ラジニーシはまだ言う。一切の存在を前にしつつも、終局まで保証されている、自我の奥で座している自我を教えてくれる。目の前のいかなる現象にも明鏡止水でいられることが、彼によって手ほどきするように教えられる。ラジニーシに教えられ、われわれは安心させられる。彼は暴力もセックスも拒否しない。悟脱の人においては、怒りもが美しい。自然に生きてよいことを、誰よりも強調してくれる。彼の言葉は具体的である。クリシュナムルティは最後にすべきことを、ヨーガスートラは最初に済ませばよいことを語るが、ラジニーシは同時に教える。苦行も片手落ち。絶対の瞑想・無構えも片手落ち。ではどうすればよいのか。本書でそれはありありと述べられる。ギリシャ人と西洋の宗教とイスラム教は力ずくで浅かった。仏教は何か言い足りていなかった。私が現代人に向けて語り直すタントラの詩が宗教の最後の境地supreme understandingであるとラジニーシは言う。本書は思索をつんだ玄人にこそ向けられたものであり、また素人に対しては「わかった気に」だけなってもらうためのものでなく今すぐできる実践をよびかける。