97年の12月にパリに居た時、本屋では、サルトルがヴォルテールと並んで別格に扱われていた。勿論、その時日本は、ドゥルーズが幅を利かせていてたので、ちょっと意外で、「へえ、10年遅れでサルトルは復活するのかな」と思ったものだ。でも、やっぱりかなり難しいし。。。難しさの一つは、或る意味「純理論」的ではなく、3H(ヘーゲル、フッサール、ハイデガー)の用語を使用しながら独自の色合いをつけるがその境界線が微妙だったり、説明の際のたとえ話などが妙に演出的で作為的だったり、理論的な説明の最中に、どう取って良いか分からないような著者独特の形容詞が出てくるので、釈然としなさが残る。思いっきり言うと、現代人の普通の感覚の上に哲学を作ろうとしているような気がする。現象の背後に本質なんかは無く、自我には「内面」などない。意識は存在と「いりこ」になっていて、存在の無い意識だけなんて言うのは無い。即自はいわば物で意識への現前、そして、そのズレの中で対自があるが、それが自我の始まり。〜でないものになる、という投企こそが、「私」だ、ということになる。いわば欠如へ向かっての投企だ。確かにマルクーゼ流のへーゲルの否定性の原理も髣髴とされるが、遥かに強烈でのっぴきならない人間性があるように思う。勿論、全体として現象学の書物だが、相当にヘーゲル色が濃厚だと感じる。ヘーゲルに欠けていたと「信じられている」自我の問題を、しかし、より徹底的に検討しているのだが、結局、他者理解は絶望的で、徹底的な個の哲学だと思う。それで良いとも思うし、しかし、もう少しぶち当たって貰いたい気もする。ところで、「弁証法的理性批判」では、歴史の中の主体性というようなテーマになっている。でも、そこでは「内面性」が復活しているように思え、本書からの後退を感じる。20世紀の社会思想の最高傑作は「弁証法的理性批判」と思うが、本書との関係を、文庫本の出版を機に、もう一度良く考えてみたいと思った。改めて本書を再読したいと思う。松浪信三郎以外の詳細な解釈書も欲しい。レヴィやソランのサルトル論は、大掴みな印象を述べるだけで、参考にならない。それと、遺稿の「倫理学」の翻訳も、もうあっても良いのじゃないかと思う。