第二巻において頽落としての現存在の非本来性が指摘された。本書第三巻ではいよいよ現存在の時間性が俎上に載せられ、その非本来的な様態と本来的な様態が対比される。
死から目をそむける現存在にとって、「今」はとどまることのない、また幅すなわち長さのない「点」として認識される。だがそれは現存在が非本来的な時間性にとどまっている限りにおいてである。例えば日常語において「今」が幅を持ちうるように、実際には「今」には幅すなわち長さがある。言い換えれば死から目をそむけている限りにおいて、「今」はとどまることなく流れ去るということになる。
またそのような通俗的時間概念から、公共化されたいわゆる「世界時間」が形成される。地球の自転によって一日が、公転によって一年が設定されるが、これはあくまでも二次的に派生した時間に過ぎない。腕時計で測る時間も同様であり、われわれ現存在は非本来的な時間概念の中で生きている。
現存在が本来的な時間概念を取り戻すためには、先駆的決意性において死へと自らを企投しなければならないとハイデッガーは言う。死の可能性を覚悟しつつ、有限的時間を看取することによって、本来的時間性が「時熟する」のだとハイデッガーは説く。
そしてそれまで現存在の側から掘り進められてきた探求(「存在と時間」)のトンネルが、今度は反対側から、すなわち時間の側から(「時間と存在」として)掘り進められるであろうことを予告して、『存在と時間』は慌ただしくとりあえずの幕を下ろす。その後続編が書かれることがなかったのは、実存主義と現象学のミスマッチによる必然であると説く論者もいる。
未完に終わったとはいえ、否むしろそうであるからこそ、本書の哲学的評価は輝きを失わない。後年明らかになったハイデッガーとナチスとの関係も、かえって箔をつけているようにさえ思われる。好むと好まざるとにかかわらず無視することのできない、二十世紀哲学最大の問題作といえよう。