子規の句は色あせない。
句の中に閉じ込められた情景は開いた瞬間五官に訴え、
色彩が、風景が立ち上がる。
そこにあるのは子規がその目で見た視線であり、
一瞬に凝結する味わいだ。
子規の句がなぜ生き続けるのかという
もうひとつの理由はその情報量だと思う。
俳諧の「侘び」「寂び」が哀愁か、それとも
諦観なのか、現代のわれわれにはよくわからない。
子規の句は、ある意味で“気づく”
という行為の集大成であるが、それで終わらないのは
この世界を「見る」ことに対する、
文字通り生命を燃焼させた子規のすさまじいまでの執念が
そこに見え隠れするからだ。
おもしろいのは、晩年になるにつれて
俳諧の決まりきった作風から脱却(逸脱)した結果、
かえって本来の俳諧の「侘び」「寂び」が鮮明に
なってくる点である。
先鋭から普遍への回帰という子規の歩みは、
表現と人との関係に何かひとつの示唆を与えているように思えて
とても興味深い。