この本は、大多数の人には理解されないと思われます。
主人公が妄想と現実を混同していることが自然に、違和感なく受け入れられなければこの作品の真髄は見えません。少々話が脱線します。例えばですが、文字を読むとき、勝手に頭の中に声で語りかけてくる感じしません? 例えば、ボーッとしているとき、自分が何してるかわからなくなるときありません?
上記の二つの例は変ですか? 私はそう思わないです。文にすると変ですが、実際はそれが日常の中にある「風景」の一部ですよね。そうすると、人間の以外のモノに特別な感情を抱くことが日常の風景に無いだけであって、本質的には同じではないでしょうか。それなのに、大多数のヤツらは、日常風景にない事をする人間、いわゆる変人のやることに大人数の側に立って安全な場所から見下します。だから変質な事や人と部類したら、排他的に接するのです。
さて、本題ですがこの作品は、方々では、あまり肯定的に評価されてません。それは、そうでしょう。電信柱に恋いをしたり、脳内彼女とイチャイチャする事がダメで「普通」なんです。ですが、冒頭から深い心の傷を持つ主人公は、ジョナさんという脳内彼女が協力してくれて、リアルの世界をバラ色にするために悪戦苦闘するのです! 様々なイベントをクリアして、その同じ月日を過ごす様子が丁寧に書かれています。途中、三次元の人間は排他的に主人公を自分達のスペースから除外していく描写があります。ですが、自分の妄想であるジョナさんだけが寄り添って、親身になり、居てくれる。むしろ、三次元の女性より魅力的なのは気のせいなのだろうか? と読みながら考えてしまった。 無論、彼女は存在すらしていないのだから、肉体的な行動での愛情表現など出来る訳もないし、キスのような恋人的な行動も無理だから、やはり主人公のジョナさんに対する想いは、普通の恋愛以上に純粋なのでしょう。
ただ、主人公も危なっかしく成長していく。いや、こちらが本当の小説の目的だろう。
最後は必ずしもハッピーエンドとはいいがたい。なんせ終盤では、「現実と向き合う」ことでしか彼女の姿を認めることができない。それでも慈雨に濡れ、息苦しく、愛おしく、憎らしい、憎まれ口も言う、だが誰より共に困難を共有した、そんな「姿」を探す主人に、読者も同じ心境となること間違いなし。
美しい最後には、何故か一抹の寂しさの余韻が心を支配します。
だが、それは最早、妄想のジョナさんを一つの人格として読者が認めたことに他ならない。だから、こんなにも清々しい読後を迎える事ができたのだと、勝手に納得しています。でも、やっぱり寂しいのは、この作者の凄いとこだな〜。