この本は別に、「女の価値なんざ、所詮9割は見た目で決まるんだから、ブスはまとめて焼却処理よっ!」という主張を、このご時世におよんで声高に叫んでいるわけではない。そうではなくて、仕草や姿勢を美しくかえることで、内面すら美しい美人になろうという本。演出家でもある著者が、他人(とくに男)に好かれるための「モテ仕草」をレクチャーしてくれる。
「相手を上目遣いでみる」ということなど、この本で演劇の観点から彼がレクチャーしてくれるのは、あくまで舞台上で映えるようなわかりやすい「女らしさ」の記号、つまり女性という「ジェンダー規範」であるといえる。
ジェンダーとは本質的なものではなく、女を男に従属させるために利用されてきた社会的構築物だっ!というフェミニストさんがたの指摘もあるだろうが、この本のそのような倫理的当否はさておき、実用面でもこれはなかなか難しいところなのである。
男の僕から、つまりこのモテ本読者によって狩られるターゲットになる可能性を保持する人間から言わせてもらうと、この本の全てをこなしてみても、男が落ちるとは限らないぞ、と思うわけだ。
仮にその人の行動を全て、男らしさ/女らしさというデジタル的な二元論に落とし込めたとしても、「女らしさ」一辺倒で男が落ちるとは限らないのである。いや、中には典型的な男尊女卑主義者、「女は女らしくあれ」という男もいるだろうが、そういう人も今や若い人の間では、絶滅危惧種だろう。
全面的にジェンダー規範に逆らわないまでも、仄かにそれを逸脱する女性。そう、いわば内なるジェンダー規範に「ノイズ」(つまり男らしさの萌芽)が発生している女性の方が、男はグッとくることが多い。
そういう意味では、この手のモテ本の教える技法はある種の男に対してしか通用しないなるわけで、では意中の男がどのような類型で、どのようなモテ本を読めば通用するのかを、これまたいちいち解説してくれるモテ本批評本、「メタモテ本」の必要性が考えられる。
悩みは深くなるわけである。