内田樹という思想家は「おじさん」「子ども」「若者」と、その都度その対象となる世代や現象を代えて(対象は必ずしも読者層と一致しない)、アクロバティックで魅力的な評論や理説を唱えてきた。
今回のその対話の相手となるのは「フェミニズム」。
内田氏は自身のブログで、ときに現代のフェミニズムに手厳しい批判を続けている自称「アンチフェミニスト」であるが、今回はそんないつもの彼とは趣が異なる。フェミニズムは近年明らかに勢いを失っている。その「かつての」宿敵フェミニストたちの理論を、今回の氏は慈愛のこもった文体で少々「湿っぽく」述懐してくれる。(それでも、「私だけが知っている」「私だけが正しい」というバカな理説に対しては相変わらず氏は手厳しいが)。
1章では、フェミニズム言語論と題して、ボーヴォワールからバトラーまで、彼女らのフェミニズム言語論をおさらいしながら(「女として語る」とは?「女として書く」とは?)、同時に「なぜその営みは頓挫したのか?」という案件にも迫っていく。2章は彼お得意の映画評論。取り上げられている「エイリアン」シリーズでは別著の『映画の構造分析』でも同じことを論じているが、シリーズ1、2、3、4と同時代のフェミニズムの潮流を関連づけて論じているこちらの方がはるかに中身が濃いので、本書の方がおすすめ。
「答えのない問い」を「問い」という宙づりの状態にしたまま、いかにそれに対して真摯に向き合い続けることができるか。己の理論の高い汎用性から生まれる、出来合いの答えを創出したいという誘惑に打ち勝つことができるか。
それが内田氏が考える思想家の倫理であると思われるが、フェミニズムはその問いを宙づりの状態に維持する我慢ができなかった。氏がそんな彼女らを一面的には批判せず、むしろパセティックな文体で彼女らの営みを振り返り評価するのは、その倫理的課題を遂行する難しさを、氏自身が一番痛感しているからではないだろうか。
この本で彼が、フェミニズムというひとつの大きな思想に「おつかれさん」と優しく語りかけているような気がした。
内田樹の真骨頂↓
子どもは判ってくれない (文春文庫)(追記 5/21)
腹が立つので追記。私の次にのうのうと☆1つの評価をして文章を上げている人間のレビューを鵜呑みにするべきではない。この人、レビューをよく読むと☆1つをつけた理由が、「まったく理解できなかった」からだそうだ。「はっ?」と思ってしまうが、第二部のエイリアンの評論にいたっては作品を見たこともないらしく、「興味もない」とすら言ってのける。よくそれで堂々と1をつけられたなと思った。また、「読み応えがない」という表現を使うのは、彼のように内容がよくわからない本に対してではなく、普通は内容が空虚だと感じた本に使うもんだろう。このように使う表現も適切ではない。
しかも、彼なりに「理解した」とされる、その本書の理解も思いっきり誤読。
そもそも、読んでわからなかった本について、わざわざレビューを書くなよ・・・。