小倉千加子による、思春期に始まり、おつきあい、就職、結婚へと続いていく「女の一生」評論。内容はわりと軽くエッセイ以上学術書未満といったところか。
この本の特徴は、「恋愛」から「おつきあい」という概念を分離させているところだろう。小倉によれば「この人でないとダメ!」という人への片思い、あるいは両思いの交際こそが「恋愛」であり、そうでもないけど周りの友人に比べて、「自分だけフリーはイヤ!」という消極的な理由でおこなう交際を「おつきあい」という。つまり「おつきあい」をする人は恋に恋しちゃっているわけだ。
なので「おつきあい」の場合、当然ながら「今よりまし」な男性を見つけたら、ころころ乗り換えていくわけである。これはアッシー君やメッシー君が「実在」した、バブルの過渡期的な現象なのかもしれない。
関西人小倉千加子の文章のノリは「ですます調」で相変わらず軽快ではあるが、論じられているのは短大生のリアルな生態である。
卒業即結婚はイヤ。でも、社会に出て働くとなってもなることができるのは、事務職。上司のご機嫌取りとお茶組みとコピーとりに始まり・・・、というより上司のご機嫌取りとお茶くみとコピー取りが永遠と続くその仕事に、だいたい27,8そこらでみな音を上げるという。
そんな彼女らもやがては結婚(中にはしない人つまり後に酒井順子が名づける「負け犬」も)、そして出産を経験する。生まれた子供が娘だった日にゃ・・・。そこは本書を読んでのお楽しみ。
他にも、福島から出てきた小倉の教え子のエピソードは、読んでいて鬱屈になる。
やっぱり生まれ、というより出身地というのは人生にあとあと響いてくるもんだよな。
男の僕からすれば全編げんなりする内容だけれども、小倉の主張は至極単純にこれら女の人生を「改善しよう」とか、そういった類の左翼的なものではない。彼女は「そういうもんだ」といっているようにも見える。つまり女の人生ってのは、次から次へと苦難が待ち受けているけど、それらをも受け入れてズンズン前に進んでいかなきゃなんない(時に「周回休み」などをとって)すごろくなんだといっているようにも見て取れる。それは、本文中にも登場するフロイト「文化への不満」で、彼が最後に提出した文化への結論とも通ずる。
しかし、よく考えてみたら短大生だけの生き方の傾向を取り上げて「女」の人生すごろくと銘打つのも、ほかの属性の女性にとっては気の毒な気がしないでもない。