西洋における「主」(キリスト教の神)の様なものを、
日本の三島は「天皇」に求めた、と言う説がある。
信仰というよりも、崇拝の対象、全的に自分を捧げられる何かとして。
『春の雪』の清顕の転生である勲は、
まさに中世西洋の純朴な少年基教僧の「主」に対するが如く、ひたすらに、
「陛下」に憧れ、「陛下」のために死ぬことを夢見る少年剣士として登場する。
そして注目したいのは、この作品で三島が勲に使わせている「陛下」と言う言葉。
例の、三島的な、いわば人間としての「陛下」ではなく、
神の代理、美の象徴、絶対的奉仕(という美)の対象としての「陛下」であって、
勲はあくまで「陛下」と言う「美」に突っ走って夭折する。
まさに、日本精神の象徴としての「陛下」に憧れ、
(詩人の、芸術家の、武士の)夭折に憧れた三島の、
或る意味では、分身とも言える少年であり、
読んでいて、実に激しい、痛々しささえ伝わってくる凄まじい作品である。
後半生の三島は「美」を振り回すことや、自己のかつての詩人性を恥じたと言う。
しかし、遂に三島は、その数々の小説作品でも、エッセイでも、対談でも、死ぬまで、
「美」を振り回さずにはいられなかった人であり、その文体・表現の美しさ、
言葉の選択のシビアさ・的確さは、彼の枯れることない詩藻・詩人性から横溢したものであったろう。
あらゆる意味で「三島的」なこの作品を、
多くの三島ファン、文学ファンにおススメしたい。