「仙酔島」や「残菊抄」は、震災や戦争という“大きな物語”に一定の位置を与えつつも、市井の人々に軸を置き、当時の庶民生活や男女の機微といった“小さな物語”を丹念に描いた優れた“風俗小説”として評価できると思う。家業を途絶えさせないための養子縁組がごく普通のことで、自由恋愛が大手を振っていない時代、老境の女性が自らの結婚生活、人生を肯定的に述懐する「仙酔島」、近代の、文学的でない、まだ本能的な男女の情愛、情欲が素直に描かれている「残菊抄」、ともに味わい深い。
一方、たぶん島村利正としてはこっちが評価されているのだろう「奈良登大路町」や「焦土」「妙高の秋」は正直ついていけない部分がある。志賀さん(志賀直哉)や瀧井さん(瀧井孝作)が実名で登場し、自らは「私」だったり「杉村理一」といった仮名、無名の登場人物はM氏やE君といったイニシャル...このあからさまな序列!志賀さんに甲斐甲斐しく世話を焼く「私」のさまは、点数稼ぎ、媚にしか思えず、「どうしてこんなん書くんかなぁ」というのは、文学というクローズドな場所で生きている人たちにしか共有できない思考である。“有名性への欲望”がここまで顕著に見えちゃうとなぁ。こういう作品が一時、文学として成立していたという記録としては価値があるのかもしれない。いや、大方の文学、典型的な文学って、その形は変えても未だに「これ」なんですか?