オビに「清貧の画家石井一男に救われた人びと」とあるとおり、この作品は画家の人生を追ったものではなく、石井一男の描く「絵」に救いを感じたり魅入られたりした市井の人々を著者が訪ね歩くという構成になっている。そして、後藤正治も「絵」に魅入られた一人である。
後藤正治は、対象とする人物がどうしても触れて欲しくないというようなことは、敢えて聴かない作家である。触れて欲しくないということは、逆に言えば読者あるいは著者が非常に興味を持つことであるはずだが、著者はそこに触れなかったり、それ以上突っ込まないことが多い。
普通、そういったノンフィクションは物足りなかったりするはずなのだが、彼の場合そうはならない。全てが読み応えのある作品に仕上がっている。
後藤正治は優れた書き手である以前に優れた聴き手であり、取材も自分が主導権を握るのではなく、相手が自ら話し出すきっかけを探っていくというやり方をしている。この方法だと取材に非常に時間がかかるはずだが、そうして相手から発せられた言葉は生きたものになり、作品は地味でも非常に深みの読み応えのあるものとなる。そして、多少の突っ込み不足は関係ないものとなってしまうのである。
この作品における著者もやはり優れた聴き手である。49歳になるまでどこにも作品を発表しない石井一男は、シャイで非常に無口な人物であるが、著者は彼に饒舌に話してもらおうとはしていない。よって、この作品において、石井の考えといったものは殆んど描かれず、また、著者も彼の思いを代弁することは殆んどない。その一方で、作品の魅入られた人々はそれぞれの思いを過不足なく語っている。
あとがきで「ノンフィクションとは、対象を解きほぐしたいという渇望に導かれてあるものであるが、本書の場合、そのベクトルは少し違っていた。解くのではなく、より深く感受したいという希求であったように思える。それには、度合いと意味合いは異なれどこの作家の作品に感応した人々の足跡をたどることによって味わえるように思いこのような構成の物語となった。」と記している。
確かにそのとおりであり、「絵」の力を伝えるにはこの手法しかないとは思うが、絵に感応した市井の人々の足跡ばかりを読んでいると、著者の作品を読んで初めて「物足りない」という言葉が頭をよぎってしまった。