マルセル・プルーストが14年かけて書き継いだ『失われた時を求めて』(マルセル・プルースト著、鈴木道彦訳、集英社文庫、全13巻)を、鈴木道彦によって順次、翻訳され、単行本(後に文庫化)として刊行されるのを待ちかねるようにして5年かけて読了した時、私は3つの印象を抱いた。1つ目は、400字詰め原稿用紙で約10,000枚という長編小説を遂に読み通したという達成感。2つ目は、20世紀を代表する小説という世の評価が間違っていなかったという満足感。3つ目は、近い将来、会社勤めをリタイアしたら、もう一度、最初から最後まで読み直したいという親近感。
物語の次の展開はどうなるのだろうとわくわくしながら読めたのは、原作の素晴らしさに加えて、プルーストに心酔している鈴木道彦のこなれた翻訳に負うところが大きい。読みたいけれど13巻という長さはどうもという向きには、『抄訳版 失われた時を求めて』(マルセル・プルースト著、鈴木道彦編訳、集英社文庫、全3巻)がある。
乱暴なことは承知の上で、この長い小説を一言で言えば、こうなるだろうか。著者のプロファイルを色濃く反映している主人公の「私」が、プチット・マドレーヌ(貝殻の形をした菓子)を紅茶に浸して口にした瞬間にまざまざと甦った幼時の幸福感から始まって、貴族(ゲルマント一族)とブルジョワジー(スワン家)への憧れ、胸躍る恋愛と嫉妬の苦しみ、華やかな社交界の裏表、理想とする文学・音楽・絵画(因みに、プルーストはフェルメールの熱烈なファン)の探求を通じて、遂に「時」をテーマにした小説を書こうと決意するまでの物語。ということは、これまで読者が読んできた『失われた時を求めて』こそ、作中でこれから書かれるはずの小説そのものなのだ。
第1篇「スワン家の方へ」、第2篇「花咲く乙女たちのかげに」、第3篇「ゲルマントの方」、第4篇「ソドムとゴモラ」、第5篇「囚われの女」、第6篇「逃げ去る女」のいずれも魅力的な物語であるが、私にとっては最終章の第7篇「見出された時」の印象が強烈だ。この「見出された時」を書きたいがためにプルーストはこの長い小説を書いたのではないか、と思っている。
人間観察の書でもあるこの物語では、「私」を巡って実に多くの多彩な人物が登場しては消えていき、あるいは再登場してくるのだが、ゲルマント一族で、社交界の大立者であり、傲岸不遜を絵に描いたようなシャルリュス男爵が、私には一番興味深い。このシャルリュスは実在のロベール・ドゥ・モンテスキウ伯爵がモデルであるが、彼らは同性愛者である。作品の中の「私」はそのように描かれていないが、プルースト自身がバイセクシュアル(両性愛者)、すなわち同性愛者でもあることが、シャルリュス像に微妙な陰影を与えているのだ。社交界での輝かしい地位を失い、老いさらばえたシャルリュスは、「見出された時」でこのように描かれている。「卒中になりながら慇懃さを失わなかったシャルリュス氏が悲劇的な形で体現していた・・・すっかり骨抜きになりながら自分自身を惜しげもなく戯画のなかにさらけ出していた」、「およそとるに足りない人の挨拶にもいそいそと帽子をぬぐリア王そっくりのシャルリュス氏」、「やつれた残骸にすぎない老シャルリュス」――といった具合で、自分の老いと死を意識し始めた「私」は、「時」の破壊作用を発見するのである。すなわち、これらの変貌は失われた時の結果なのだ。