吉川一義訳『失われた時』の総体的感想は第1巻のレビューに記したので、ここでは第2巻で気づいたことを記しておきたい。
吉川訳の特徴は、欧文脈に頻出する代名詞や所有形容詞をかなりの程度、固有名詞に置き換えていることだ。
本書の冒頭近くから例を挙げてみる。
《……料理番はスワンの愛人だったのであり、女と手を切るつもりのスワンは、当の女中だけに知らせれば充分と考えたのである》(37ページ)
じつは、ここは直訳すると、以下のようになっている。
《……彼女は彼の愛人だったのであり、彼は手を切るときは、彼女だけに知らせれば充分と考えたのである》
もちろん、文脈に沿って読んでいけば、下の直訳の「彼女」が料理番の女中をさし、「彼」がスワンであることはわかるが、吉川氏はじつに親切に<固有名詞化>をおこなっているのである。
しかも、わずらわしくならない程度に――。
第1巻に立ち戻って調べてみたら、やはり同様の配慮がなされていた。
吉川訳の読みやすさの秘密のひとつはこのあたりにありそうだ。
もう一点、本書の充実を記しておけば、丁寧な図版である。
スワンがオデットを探し求め、目の色を変えて大通りのレストランを駆けめぐる有名なシーンがある。
彼が探しまわった<プレヴォー><メゾン・ドレ><トルトーニ><カフェ・アングレ>……という実在のレストランが大通りのどこに位置していたのか、地図で表示してくれている。
それを見ていると、スワンが《怖ろしい形相で》大通りを行きつ戻りつした姿が見えてくるようだ。
しかも、104ページには各店のファサードの絵や写真が載っている。
21世紀のいま、19世紀後半のパリの物語を読むときに、こうした本づくりはとてもありがたい。
『プルースト美術館』(筑摩書房)、『プルーストと絵画』(岩波書店)の著者だけあって、収録図版およびその説明が申し分ないことは、いうまでもない。