上巻は、交通事故死した永劫寺サンガの青年雲水末永が元オウムだと判明した時点で終った。上巻では秋道の犯した特異な事件と彰之の観念的な認識論の絶望的乖離が圧倒的だったが、下巻も、オウムを素材にしながら、精神世界がより深く掘り下げられる。合田の孤独・隔絶感も益々高まっているようである。部下との言語感覚・信仰概念の相違が冒頭から露呈されている。言葉が持つ意味の齟齬感は作者自身のものかも知れない。
サンガの修行僧は元オウムの末永に異質を観て驚いたのか、同質を観て驚いたのか ? 仏教の本質を理解していない私の様な者にとっては、又しても「不可知」を論じている様に思える。しかし何れにせよ、末永は集団から排除されたとも考え得る。また、住職明円が末永を唱して展開するアラヤ識論は素粒子論にも似て、作者が末永をこの病種に設定した理由付けにもなっている。現世利益からインド的神話世界まで禍々しく包含した「宗教」。登場人物の言葉ではないが、現在「宗教」と真っ向から対峙出来る作家は作者くらいだろう。また、道元に関する明円と合田の会話、「不可逆の因果があるから言葉の論理が可能になる」は作者の執筆原理と取れる。そして、突然のサンガの解散。「正法眼蔵」も「バガヴァッド・ギーター」も読んでいない私には理解し得ない宗教論議が延々と続く。くどい様だが、作者は自身が紡ぎ出す言葉の力に賭けていると思う。オウムに対する分析も微細を極めるが、本質は我々の心性・認識原理の徹底解剖とその言語化であろう。<空>かも知れない<私>論を、飽くまで言語活動として展開する最終章も印象的。
小説としての成否は兎も角、「宗教」を軸として現代人の心性の問題にここまで踏み込める作家は作者を置いて他にはあるまい。「不可知」なモノを言葉で表現する壮大な試みを行なった圧倒的な作品。「晴子」の物語は完結したのであろうか...。