一般的な人間には理解しがたい対象、即ち現代芸術(抽象画)・動機不明の殺人・宗教に対して、どのように向き合うのかというテーマが真ん中に据えられています。これらの対象に合田雄一郎の眼を通じて深く、そう、沈み込むほどに深く入り込んでいくのですが、上巻の主要人物・福澤秋道の芸術と殺人、下巻の末永青年の死を契機に言葉が尽くされる宗教論(特に、オウムと古代インド宗教、禅宗との対比と本質論)に、入り込むというよりは埋め尽くされてしまう感覚が体を離れません。合田雄一郎も40を過ぎ、過去の作品に見られた表出する情熱は影を潜め、警察官という仕事や離婚した相手とその兄に対する考え方に変化が見られ、ただでさえ孤独であった彼が、殺人を犯した秋道に対しての父・福澤彰閑の何通にもわたる手紙を読む、あるいは執拗とさえ思えるほど宗教に対しての、いわば一見しても、あるいはそれ以上によく見ても理解しがたいものに対して「なぜ」という問いを繰り返しながら近づいていく姿は、決して華やかでもなく、恵まれたというわけでもない、要するに一般的な意味で言う幸せではない彼自身の人生に対する「なぜ」という思いと重なって、腹の底からの共感を感じました。彼は求めれば求めるほど、問い続ければ問い続けるほど孤独の影を濃くしていくようです。しかし、秋道に宛てた彰閑の最後の手紙には、息子に寄せる父の思いが感じ取られ、その思いに合田雄一郎も思いを寄せる様子が想像出来て救われます。この小説は、上下巻を通して、「分かる」とか「意味が通じる」といったいわば幸福な関係が断たれたものに対する接近を描いたものであり、一般的な「意味」からの自由を求めた者たちに対するレクイエムでもあると思います。日本では珍しい形而上学小説であるのと同時に、理解しがたいものが本当に我々の間近で頻発する現代への高村薫自身の向き合い方を表明した作品です。そして、立ち尽くしては内省し、問い続けては立ちすくみながら、今までとは違う何かを手にしたであろう合田雄一郎がこれから何処へ行くのか、次回作が待ち遠しくなる、本当に素晴らしい作品です。